次にその原文の一部を抜粋する。
氏名未詳書状(「湛稿演二」紙背)
――候、此間一両度令催促 候、(中略)便宜之時は可得御意候、又つきうらの八郎殿出家遁世 いかはかり親父入道殿被 仰候覧、毎事期後信候、 謹言
(『金沢文庫古文書第四輯闕名書状篇(一)』より)
輪如書状(湛稿五中六紙背)
故心蓮寄進候、其後(中略)又、此騒動剋自大殿法寿殿自南殿乙御前、二人出家候、皆御存生之時、被仰置候、又次浦五郎左衛門子息一人罷出候之時、申入候て、仰なしてたひ候へと、ねんころに申候し(以下略)
六月十日 輪如(花押)
(『金沢文庫古文書第三輯僧侶書状篇(下)』より)
圓秀書状
此間何條御事候哉、御出之後未承候、恐 不少候
抑、雖不思懸申状候、次浦の故修理助入道殿之息女比丘尼、先年被受衣鉢候ける師匠は、先代甘縄の駿州之御息から首座とて、世上転変之折節は、東勝寺長老にて被坐候けるなる(以下略)
九月七日 圓秀
本如御房御侍者
(『金沢文庫古文書第二輯僧侶書状篇(上)』より)
鎌倉時代の支配者達は、村のどこに居住したのであろうか。それを裏付ける確証があるわけではないが、現在の字馬場小屋一九八九番、通称「城山」の辺りではないかとも思われる。「城山」周辺の城と関わりをもつ地名(字名)、地形を見ると、広さは約二反歩ほどであるが、そこだけが水田地帯に突き出している。
東南は人工的に削り取ったようで三メートル位の高さがあり、今でもそう容易には登れない。西側には堀の跡がはっきりと残されており、北側は、自然に切り立った高さ二〇メートル位の崖となって水田に接している。
このような条件に囲まれた方形の台地は、鎌倉時代の城(館)の原形を、現代に伝えているものとして実に貴重である。付近の字名も、馬場小屋・内小屋・馬場道など、城や武士に関係の深いものが多い。
また字内小屋に住む人々と平山姓を名乗る人達は、新盆に高燈籠を吊る風習に従わない。この習わしは今も厳然と守られている。そのいわれは、次浦城と同系の御所台城が、盆燈籠の揚がるのを合図に騙し討ちに会い、落城したためと伝えられている。
この伝説はかつて城が存在していたことを物語っており、それをたずねる手掛りとしては、昭和三十年頃、城山の一隅で炭焼きをしていた人が、古銭を発見したこと、また南に二丁ほど離れて物見塚(字谷一八五三番地)と呼ばれる塚があり、この塚の隣接地である岡村家(あいや)の宅地内から、大正十二年八月に永楽銭が一壺発掘されている(これは同家に保管されている)。
永楽銭は城の関係者が埋めたものと仮定して、古銭の流通年代から城の活動時代を推定すると、城は鎌倉時代に造られ、室町時代にはまだ健在であったと想像できる。
次浦城址
また、城主は八郎常盛を祖とする修理助入道、次浦五郎左衛門など、千葉氏一族であったと多く信じられているが、一説として昭和五十二年発行の『千葉氏研究の諸問題』の中で野口実氏が「源平闘諍録」を「治承四年(一一八〇)九月、頼朝の挙兵を知った千葉常胤は、胤頼・成胤をして下総国目代の館を急襲させ、国衙機構を掌握するため公然と謀叛に踏み切り、これを知った千田庄領家判官代(藤原)親政は、常胤を襲わんがため原十郎太夫常継・金原庄司常能等の一族による軍兵を発し、匝瑳北条の内山館から武射の横路を越え、白井馬渡の橋を渡って千葉の結城に向い、合戦に敗れた親政は千田庄次浦館に引きあげた」と詳細に説明をしている。
この説によると、次浦館の主は反千葉氏系の藤原一族であったことになるが、千田庄次浦館の館の場所は謎である。仮りに館の場所を城山とし、字御所作・出戸の低地を濠として、その内に館があったと考えることもできるが、決定的な資料はなく、さらに研究すべき点であろう。
かくて多くの変遷を経ながら結果的には、この地方は千葉氏一族の権力が支配するところとなるが、やがて千葉氏は同族間に内紛が起こり、小田原北条氏の幕下に組み入れられて、地方歴史の一大転期となった天正十八年(一五九〇)を迎えることになる。
天正十八年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして、関東は徳川家康の支配するところとなり、ここに千葉氏はかつての全支配地を失うことになった。そのことにより、ほとんどの将士は刀を捨てて、帰農の道をえらんだのである。それは、いまも出沼・桧木に残されている古文書によって、当時の様相をうかがうことができる。この詳しい内容は出沼・桧木の項を参照されたい。
そして徳川初期の村の指導者階級は、その文武にわたる実力から考えても、千葉氏支族の帰農者たちによって占められたであろうことは、以後の帰趨を辿ってみれば明らかである。
徳川氏は関東に入ると、矢作城に鳥居元忠を配した。鳥居氏は慶長四年(一五九九)に別名「矢作縄」といわれる検地を行い、その検地帳に矢作牧の野付村または霞村として、大門・次浦・出沼・井戸山・古内・三倉・高津原の各村が記されていることから、これらの地が矢作城の支配下にあったという事実が証される。
なお、『佐原市史』によると、この矢作縄帳は、現在も佐原市伊能家に保存されているということである。
そして、寛永十六年(一六三九)正月には、一万五千石を領して、上総国天羽郡佐貫城主となった松平出雲守の飛地領として支配される。
松平出雲守は忠左衛門勝隆と称し、天草の乱で勇名を馳せた松平重直の伯父に当り、鳥居元忠の甥になる。
二代修理亮重治は、品川式部大輔高如の長男で(母は勝隆の娘)、承応元年(一六五二)に勝隆の養子となった。貞享元年(一六八四)十一月領地を没収されるが、その理由は「重職に有りながら卑賤の者に筋なき書を贈り、不当の所為により」とあり、保科正容に永の御預けとなったまま生涯を終えた。
その後は、しばらく代官支配(幕府直轄地)となり、元禄十一年(一六九八)に本間十右衛門の知行地となった。
本間家は千八百石の旗本で、知行地は下総では次浦・飯笹・石成・笹本などである。家系は清和源氏を祖とし、五代五郎左衛門季重のときに徳川家に仕え、十右衛門に至って次浦の地頭となった。
十右衛門は京極主膳正高明の四男に生まれ、先代の娘を妻とし、元禄十年七月十一日に遺封を継いでいる。特に馬術の誉れが高かったという。
本間家支配は、明治に至るまで続き、十三代は本間義制といい、明治二十年二月十五日に没しているが、長州征伐には、広島より津和野まで御手先頭として活躍した。このとき(元治元年)に、御供人夫として八名の村人が加わったと、惣躰神社日記に記されている。