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村のすがた

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 次浦の歴史的な移りを一応述べたので、次に村のあらましを古文書、口伝などによって探ってみよう。村の規模、村の歴史の内部を知るうえで、最も重要な資料とされる元禄四年(一六九一)に書かれた『村差出書』と呼ばれる古文書が残されているので、左にその全文を掲載する。『村差出書』は、支配者の交替などがあった場合に書き出す村勢一覧のようなものである。
 
   元禄四年未(一六九一)閏八月二十八日
     田畑指出帳
一、高参百七拾四石   下総国香取郡次浦村本田辻
   此反別
田畑 合参拾九町四反参畝参歩
  田 参拾町五反六畝弐拾八歩
   此分
 上田 壱町弐反七畝弐拾六歩
  分米 拾九石壱斗七升九合   十五
 中田 五町四反八畝六歩
  分米 六拾五石七斗八升四合  十二
 下田 弐拾参町八反弐拾六歩
  分米 弐百四拾五石弐斗弐升九合  拾下二
 畑 八町八反六畝五歩
  此分米参百参拾石壱斗九升弐合
 上畑 参反五畝拾参歩
  分米 弐石八斗参升四合     八
 中畑 弐町七反弐畝拾八歩
  分米 拾六石参斗五升六合    六
 下畑 壱町参反五畝四歩
  分米 六石七斗五升六合     五
 下々畑 参町七反七畝拾九歩
  分米 拾壱石参斗弐升九合    三
 屋鋪 六反五畝拾壱歩
  分米 六石五斗三升六合     拾
一、新高八拾石四斗四升四合 同所新田
 内八升五合五勺   無地高
   此反別
 新田畑合 拾四町九反壱畝弐拾参歩
  田 六町壱反七畝拾歩
 此分下田 壱町六反九畝弐歩
  分米 拾七石四斗壱升四合  拾下三
 下々田 弐町五反五畝弐拾八歩
  分米 拾七石九斗一升五合    七
 河下々田 壱町九反壱畝弐歩
  分米 九石五斗九升三合三勺   五
 畑 八町七反四畝拾参歩
 中畑 四反参畝参歩
  分米 弐石五斗八升六合     六
 下畑 参町六反四畝拾五歩
  分米 拾八石弐斗弐升五合    五
 下々畑 四町六反六畝弐拾五歩
  分米 拾四石五合        三
元禄元辰より高に入る
 新々畑 四反四畝歩   壱筆
  分米 六斗 升  御記有之候
下総国瑳佐(ママ)郡虫生村広済寺末寺
一、境内 山林共除地 真言宗 泉光院
同国香取郡稲荷山村 大聖寺門徒
一、同  除地    同宗  養福寺
 是は高の外帳面に印置申候、跡々より除地には御座候所に、池田新兵衛様より御證文被置下候
一、御城米附出候義は、同国佐原村河岸迄道法三里、河岸より江戸迄川道御運賃の義は、跡々より五分宛被下候処に、去年より三分七厘宛下候御事
一、当村より江戸迄、陸路拾八里御座候
一、御普請所一切無之候、他村に助人足に出候儀も無御座候
一、切支丹類族壱人も無御座候、並不受不施、非典宗門僧俗共に壱人も無御座候
一、浪人壱人も無御座候、惣して行衛不知者に一夜之宿も貸不申候
一、証人無之者一切差置不申候
一、鉄炮壱挺跡々より御手形差上預り置申候
一、酒造候者一切無御座候
一、当村馬草場無御座候間、毎年手前勝手次第に隣村々野銭出苅申候
一、家数 六拾八軒御座候
一、人数 四百参拾壱人 内 男弐百拾参人 女弐百拾八人
一、馬数 六拾参疋
一、牛数 弐疋
一、犬  壱疋も無御座候
 右は此度御替目に付、郷村御請取被遊候、依之水帳御割付共に入御被見、其上村境迄 記御目録指出差上申候通、少も相違無御座候、此外隠田は不及申上、浮役小物成とも隠置不申候、為名主、組頭仕連判差上申候、依て如件
   元禄四年未閏八月
                                         下総国香取郡次浦村
                                                縫殿之助
                                                 五兵衛
                                                雅楽之助
                                                  主計
  御代官様
 
 この差出書と、区有文書として残っている寛文三年(一六六三)の『田畑帳』、天保八年(一八三七)の『新田畑帳』の面積を比較してみると開拓の進行状況がうかがえる。
 元禄四年頃の新田は六町余、新畑が八町七反余であり、さらに天保八年の新田が四町六反となっている。白幡神社御日記の享保十年(一七二五)の項に「新田巳の年より堤普請仕候、谷地自由至す者此年より初候」とあって、農道完成の喜びを記している。水田開発の盛んな時代であった。
 次にどのあたりから新田開発が進められたかを、前記諸帳によって検討してみると、山間の谷津田から栗山川沿に向い、同川に沿って下流の方向へと進められたように思える。
 そのわけは、水田耕作に欠くことのできない水の神を祀る石宮が、元文六年(一七四一)に新川の水田を見下す内の原の東端に造られ、字石橋の水田を眺められる石橋台南端にある石宮は、それから一〇年後の、宝暦五年(一七五五)に建てられている。これらのことから栗山川沿岸の開発は水神宮の建立された元文(一七三六~四〇)から宝暦(一七五一~六三)にかけて、上流の新川(にいがわ)から石橋へとすすめられて行った、と考えられないであろうか。
 次に、その水田の豊饒を祈願した水神宮について記してみる。
 祭神は、水を主宰する弥都波能売神(みづはのめのかみ)で鎮守境内の椎木の下にある一基は刻字不明である。字内の原東端(字馬洗一六七七ノ二番地)にある一基には「元文六年辛酉二月朔日 奉新造立水神宮成就祈願々主次浦村中」とあり、石橋台南端(字石橋台一二八四ノ四番地、現在は採土のため平地)の一基には「宝暦五年乙亥九月吉日 奉建立水神宮願主佐藤縫之助 藤崎雅楽 佐藤四郎左衛門 平山文左衛門 平野主計」と刻まれている。
 畑については、元禄以降の大規模開墾のことは記されていない。村最大の畑地である字木の根田が開畑されるのは、明治になってからのことである。
 開墾についての文書には『妙見御奉社御日記』があり、その明治四十二年の項に、「山久保ノ原野開墾相成」と記され、また『惣躰神社御日記』の同年項にも「木之根田の原野 実測面積廿六町五反余」と記されている。
 山林の個人所有の総面積は少なく、寛保二年(一七四二)の山畝歩帳には、一〇町二反四畝一三歩となっている。
 次に記すのが明治五年新政府に差出した『村明細書』である。さらにそれに続いて現在の面積、人口等を記したので、発展の跡を知る一助とされたい。
 
                                           香取郡次浦村
一、高四百五拾四石四斗弐升
一、戸数 七拾弐軒 外惣躰社 永福寺末社白旗社 蓮台寺
一、人員 三百六拾六人      僧一人
一、村絵図 一枚別紙相添申候  尼無御座候
一、官林 無御座候
一、官倉 同 断
一、防堤 同 断
一、氏神惣躰太神 当村惣躰社除地四百坪 別紙絵図相添申候
一、旧神宮 無御座候
一、白幡太神但シ石祠除地拾五坪 立木無御座候
一、新義真言宗永福寺除地百三拾二坪 滅罪僧一人有之候 別紙絵図相添申候
一、同 宗蓮台寺除地百五拾二坪 滅罪僧無御座候 別紙絵図面相添申候
一、辻堂一ケ所除地四五坪無住但シ院内
一、葬地四ケ所無税之地別紙絵図相添申候、西ノ台三畝歩、花輪二畝廿歩、馬場古屋十八歩 御年地前畑二十八歩
一、辰年已来廃社寺合併 無御座候
一、珍宝 同 断
一、庵塔石祠石仏銅仏ノ類 無御座候
一、孝子義僕貞婦奇犢人 無御座候
一、学校病院並私塾海内外留学生 無御座候
一、義倉 積 四石
一、社倉 無御座候
一、旧宮谷県之節荘屋一人、組頭二人但シ巳年旧県ヨリ米三石被下置 一石ハ村方ヨリ相談之上差出シ荘屋壱人ニ付合四石御米弐石組頭二人ニテ弐石尤も辰年以後ハ名主組頭百性共七人ニ而相勤申候
一、村役人高引等 無御座候
一、壬申百歳八拾八歳祝寿舎 無御座候
一、棄子並養育人名前及び当申年分御扶助者下置候者 無御座候
一、乗馬 無御座候
一、農馬 三拾一疋但シ牝馬斗り
一、牛羊豚 無御座候
一、水車場及人力車荷車 無御座候
一、船 無御座候
一、会社及金銀分折人 無御座候
一、鉱山及石炭出産ノ山 無御座候
一、鉄炮玉薬 無御座候
一、鉄炮製造人売買人 無御座候
一、官軍従行戦死者 無御座候
一、官費橋梁 無御座候
右ノ通相違無之候
     壬申六月                                 右村戸長堀平右衛門
  新治県御出役
 大前権大属
 青木権少属
 
    昭和五九年現況
  宅地   一一町七反七畂歩    山林   四二町九反四畂歩
  田    八三町五反二畂歩    原野   四町三畂歩
  畑    三〇町二反九畂歩    その他  四三町七反八畂歩
  世帯数  一一一戸
   男二三〇人、女二三八人 計四六八人