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遺跡・旧蹟

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 内の原 惣躰神社の裏側で馬頭観世音の所から、旧佐原街道に分かれて東へ行く一本の里道がある。小三倉に通ずる道であるが、次浦の分限者佐藤四郎左衛門が、小三倉からの年貢を自宅に運ばせるために、自分の所有地内に作ったといわれる道である。この道の左右に拡がる畑地が「内の原」である。一説には「討死の原」ともいわれるが、今までのところここからは戦さのあったことを証するものは発見されていない。
 この一帯は古墳群で、ところどころにそれと思われる小丘があり、南端の崖の中腹には横穴古墳も現存している。時折土器片が出土する。
 畑地のほぼ中央に鳥居が一基建てられてあり、その奥に石を重ねて石宮が安置されている。これが明治二十六年に出土したもので、重ねられている石は石棺に用いられたものである。
 出土品は、瑪瑙製の勾玉、水晶製でガラス状のもの、碧玉岩でできた管玉、小玉、琥珀製の棗玉、水晶製の切子玉などで、「以上は、小生遺跡を実査せず、又右遺物と併出したる物を存ぜざれば、確実には申上兼候へ共、大体古墳時代末期、或は稍それより下るものなるべしと存ぜられ候、勿論、斯る立派な墳墓を残したる人なれば、其地の有力家の遺品に可有之候、云々」と書かれた、東京帝国大学考古学研究室原田淑人教授による、昭和三年三月所見の書状と現物が、藤崎治郎兵衛家に保存されている。
 山王社跡 前記畑地が永台寺の裏山に接するあたりにその一部で四~五坪の部分が耕作されずに荒地になっている所がある。これが惣躰神社と同時に遷されたといわれる山王社跡で、石宮は現在平山五兵衛家屋敷内に移されていて、同家に伝わる古文書にも記されている。
 郷倉跡 字谷一八四一番地の一にあり、いつ頃造られたものか、また、その規模がどのようなものであったか、などについては全く不明である。
 同じ宅地の佐藤常右衛門家の裏に、かつて二〇坪ほどの池があり、清冷な泉を水源とし、井戸水が涸れたときは緊急用の飲み水となり、また、種籾を浸す場所として近隣の人達に使われていたが、いまは埋め立てられて、その名残りを小さくとどめている。
 郷倉はこの池の東方台地にあったと伝えられ、寛文三年(一六六三)の検地帳には「御蔵屋敷二十四坪免貢地」と記されている。
 行屋跡 字谷一八五七番地にある。佐藤忠右衛門家裏から岡村家(あいや)に通ずる急な坂道を「行屋の坂」と呼んでいるが、その左側が堂山墓地で、右側が行屋跡である。
 由緒・縁起などについてはわからないが、ここに一札の書状が残されている。
 それは天保十四年(一八四三)九月二十五日、名主長左衛門が羽黒山役所金剛院へ宛てたもので、「次浦の医王山薬師寺は、本堂庫裡が無く三間半に六間の客殿だけである。田は一畝二〇歩、畑が八畝二二歩で山は三畝九歩あって、これは除地(年貢免除地)である」という報告書であるが、このことによって山岳信仰を奉ずる修験者で、加持祈禱、卜占を業とした羽黒山系の山伏が宿泊して、修業布教していたであろうことが想像される。
 玄龍塚 字一本松二〇八七番地にある。
 出沼に向かう道路が、畑地を過ぎて山林地帯に入る所で木の根田開墾地(現在ゴルフ場)へ入る小径に分れるが、そこを二〇メートルほど入った左側に、三〇坪ほどの自然林が見られる。これが「玄龍塚」である。
 一木一草といえども、その採取が禁じられ、それが今も厳守されている聖地で、「薦玄龍大徳霊 平野貞次郎 土屋愛次」と刻まれた石碑と、「大正十三年五月次浦女人中奉納」の石の手洗いがある。
 昭和初年頃まで、このあたり一帯は一大森林地帯で、曇天には昼間でも提燈をもたないと歩けないような所で、出沼へ行くに当っての難所とされていた。
 大正時代には、玄龍様の信仰が盛んで、一段下の山腹にある御手洗いの池には、緋鯉が群をなして泳ぎ、縁日には、道の両側に色鮮かな幟がはためき、屋台店が軒を並べたという。
 これについての伝承は、むかし、回国の僧玄龍がこの村で亡くなったが、「村はずれの街道の傍に葬って欲しい」という遺言によって、成田参詣道であるこの地を墓所とした、といわれるのみで、他はさだかでない。なお、永台寺過去帳に「玄龍法子延宝三年(一六七五)三月回国の人死 」と記され、遺筆といわれる鷹を画いた墨絵が二幅同寺に残されている。
 永福寺跡 字西一九三六番にあり、残された石塔によってわずかにそれとわかるのみで、すでに昔日の面影はない。
 惣躰山永福寺と称し、開山については不明であるが、開山和尚の碑といわれる板碑があり、それには「右志者為十三ケ  法印妙典一百六十 一結衆 永徳元年(一三八一)十月 日」と刻まれている。
 この板碑は現在永台寺境内に移されている。
 この寺は明治十年の火災によって失われ、昔日の偉容は古老の口伝に残るだけである。寛永十三年(一六三六)に法印尊有によって建てられた毘沙門堂は、当時としては、最高の技法によるものと語られ、その大きさ、形状ともに、華麗さにおいては他に類を見ないものであったという。
 残っていた鐘堂も朽ち、庫裡の一部は集会所として使われて来たが、昭和四十年に青年館が新築されたため解体された。
 「稚児の松」跡 字西の台一八九二番である。ここに「稚児の松」と呼ばれた老松があったといわれ、その由来とこれにまつわる物語について、初代久賀村戸長堀平右衛門は、次のように書き残している。
 
     次浦字西ノ台墓地稚児ノ松由来
 西ノ台名松、寿永元年壬寅(一一八二)墓松植ルト云フ覚書アリ、此松ヲ稚児ノ松ト云伝ヘラルルモ其昔何人ノ児ヲ此処ニ埋葬セシヤ不詳
 墓印ノ松ト確定スハ、近キ寛永年度(一六二四~四四)松平出雲守上総佐貫ヲ領シタルトキ、安房国騒ケ敷キニヨリ当村モ同領分ノ事故御老母様引移リ土着中病死ス、依テ此ノ松ノ前ヘ埋葬ス、地蔵尊ノ石仏ニ委シク記載シアリ、享保五庚子(一七二〇)二月有志者之ヲ建ト云フ
 其ノ名松大ナルコト左ノ如シ、廻リ三丈一尺八寸長サ凡十丈余、右松木地盤ヨリ幹一丈八尺程アガリテ四本ニ分レ其廻リ一丈四尺四寸、一丈八寸、一丈一尺八寸、一丈一尺三寸、ソレヨリ又八本ニ分レテ、八ツノ股ニ分レシ故一名八股ノ松ト呼バレタリ、然ルニ明治三十七年六月十九日大雷ニ付落雷為メニ枯死ス。
 前書名松ハ当村古検地帳ニモ御墓掃除免トシテ
一、畑弐畝拾弐歩 免除相成居候
 右稚児ト申シタルハ不詳ニ候得共、由緒正シキモノト確定ス、依記念ノ為書置クモノナリ
 
 このことについて調べてみると、永台寺の庫裡の裏手に入口が一つで床板の一部が開くようになって、「隠れ部屋」といわれた一室が、今次大戦の後改造されるまで実在した。
 松平家は寛永十六年(一六三九)佐貫に入封し、そのときに、当地方を飛地として所領したことは前記のとおりであるが、入封前年の寛永十五年(一六三八)館野に百姓一揆があり、さらに正徳元年(一七一一)万石騒動が起こっている。情勢ははなはだ不穏であり、万一に備えてここに松平氏老母が移り住んだのかもしれない。あるいはまた貞享元年(一六八四)の領地没収との関連についてはどうであろうか。
 墓地の地蔵尊の台石には、「松平出雲守老母様御墓所 三界万霊有縁無縁合   享保五年(一七二〇)二月施主西作墓所」と刻まれているが、この時はすでに地頭は本間家に替っていたはずである。
 また、この墓じるしといわれる松はとにかくとして、石塔についてみると、城主の母のものとしては規模が小さいし、戒名も刻まれてない。松平家は佐貫に菩提寺があるので、当然そこに葬られるものと思われる。旧地頭の母として、後世の人々が供養したとも考えられるが、いずれにしても資料に乏しく、詳細は明らかでない。
 立野(たてや) 字京町にある。佐原県道から村に入る入口に坂中の坂があり、その登り口から下の水田を振り返ると、栗山川に沿って野草の生えるままに任せた一角がある。
 それは村の共有地で、草屋根葺替え用の萱を刈り取っていた萱場である。草屋根が姿を消しつつある現在では、冬ごとに焼き払われるだけで放置され、あやめなどの野花が咲き乱れる別天地、また、水鳥の楽園地ともなっている。
 この萱刈場共有地についてのいきさつを記した文書が保存されており、参考になる点も多いので、次に記載する。
 
     芝生地共有地連名簿                          久賀村ノ内元次浦
   明治十四年二月廿五日
 右萱生地之儀者往古より永壱貫五百文上納ノ上村内所有之儀自由致居候処、御維新以降明治六年中官民 自由之調之際、当役場ニ備置候皆済目録其他確証有之云々申立候得共、民有之権無之ニ付官有ト見做置候処、同九年地租御改正実地丈量之上地引帳進達之際村中持ト記載候処、多古仮役所派出官山崎殿御調ニ相成候処、事務関係者御呼出シ之上少々之廉之取調ニ預リ、証書持参之上夫々云々申上候得共、更ニ御採用無之張掛紙ヲ以官有地ト御改メ置候ニ付、村内協議之上他江払下ニ相成候てハ必至ト難渋ニ付、夫々村地等ヲ売払資本金ト而六拾円当役堀平右衛門殿方ヘ備置候処、尚又明治十一年一筆限帳進達之際ニモ村中持ト記載候処、所管郡役所改正掛伊藤重殿ノ御調ニ、右萱生地三町八畝歩之義者地引帳ニハ官有地記載有之趣キ仰被聞候ニ付、全書記誤ニ而村内一同難渋段申立候処、特別詮議ヲ以地引帳正方戸長連署ヲ以一筆限帳ノ儀者村中持分相成候間一同安心之居柄、尚又々明治十三年中山林原野再丈量済之上曩ニ進達仕候地引帳訂正ニ付、佐原仮役所糸屋久治郎宅ニ而派出官川瀬渡殿御調之上、該村萱生地官有地之義者先般差上候確証ニ而者更ニ御採用無之、村中持ニ者被相成旨被聞仰候ニ付数度歎願仕候処、其際洩落ニ相成居候確証取調至急願出ベキ段被聞仰帰村之上篤ト取調候処、岡村長左衛門宅ニ於テ証書見附出シ又々出願仕候処、右之原因御調之上特別之御仁恤ヲ以御聞済之上県庁御指令ニ相成候上者、少々堀平右衛門殿ヘ備置候金円元利共正ニ受取、尚又先般山倉浅右衛門、岡村長左衛門殿ヨリ当社江奉納有之候金円ヲ助力ト而、字馬洗ニ而払下地相当代価金百六拾五円以当社面田ニ永代買受置候也、依而者官地引取際、事務関係者並願人等為後年記載置候者也、猶又萱生地之儀者共有地連名簿ニ備ヘ置候也
                                         事務関係人 岡村 昌作
                                         〃     佐藤 善兵衛
                                         〃     米本四五衛門
                                         願人    土屋 太兵衛
                                         〃     室岡新左衛門
 
 こうして、明治十四年二月二六日付をもって千葉県令船越衛より村有地として認可され、さらに区有地となった。
 その後、さらに新農地法によって、採草地として八十数人の区民に分割売渡しがなされ、表面上は個人所有となった。ついで、昭和三十六年から始まった耕地整理によって、一反ごとに再分筆され、所有者数も減少して現在に至っている。
 こそじ墓地 字前畑一四八七番地で、久賀小学校西端から、畑をへだて、小さな墓地が見える。字名は「前畑」になっているがこの付近を「こそじ」と呼んでいる。「古荘司」の転化かともいわれるが、その立証は困難である。
 しかし隣接する畑で昭和四十三年頃、同村の佐藤なかさんが板碑を発見したが、それは高さ五九センチ、幅一七センチの武蔵式板碑で「貞和二年(一三四六)六月日」と刻まれている。これは南朝年号の興国七年に当ることから、当時このあたりで北朝年号が使われていたことを立証するものといえよう。現物は公民館に展示されている。
 旧街道 『妙見御奉社日記』によると、県道多古佐原線は、明治四十一年開通とある。それまでの多古佐原道はまず西古内の村中を通過して、次浦字石橋の水田のくびれた所に出る。そして、石橋台の山を越えて反対側に下ると字谷間に出るが、この間がいかにも旧道らしい薬研堀の山道である。
 畜産センターの下を通り、坂中の背骨となっている山に突き当って右に回り、坂中の坂を上りつつ人家地帯の中央を抜けると、惣躰神社のわきで幹線の馬場道と交差する。内の原の端をかすめて沼田川を渡り、左に折れて五十塚を過ぎ、本三倉の産土社の近くへ出る。これが佐原街道で、ところどころに道祖神、庚申塚が祀られており、沼田川から先の山道は旧道の姿をそのまま残しているが、街道中の難所であった坂中の坂は、昭和八年改修され、面目を一新している。このほか成田参詣道もあって、玄龍塚を通るのがそうだといわれているが、村に入ってからの起点・終点はさだかでない。