この二神は、大八州の国々を造り、天照皇大神を初めとする諸神の祖として、天の神、地の神にもたとえられ、惣躰神社と称した。惣とは、すべての御神の根源という意味である。
縁起をたずねれば、平山五兵衛家の古記録に、
氏神
東 山王大権現
西 惣躰大明神
南 八幡大菩薩
北 稲荷大明神
延暦一六年(七九七)九月一六日次浦原ニ遷シ奉ル 平山楽之助
と記されている。
同家では毎年十二月になると、当主が一カ月間、肉や魚類を口にせず、精進潔斎して、大晦日には台所への女人の立入りを禁じて一人で料理し、燃料はすべて豆柄を使う。飯は白い豆飯、汁は味噌をすらない落し味噌で、大根、牛蒡、里芋の茄で物と、鮒の白焼を、一皿ずつ付けたお膳を二膳作り、夜の十二時に衣服を正して人目をさけて神前に供え、また十月十七日(村の神事祭)には、甘酒と白強飯のお膳をしつらえ、昼の十二時に神前に捧げるという行事を、今でも欠かさず行っている。
明治七年に、第五大区小七区の村社となり、次浦・井戸山・寺作・御所台・西古内・南玉造の各村を氏子とし、その数は三五四戸であったという。
祭事としては、豊作を祈るための春の「春祈禱」、秋の嵐の無事を願う「風祭」、一月七日には一年の平穏を感謝する「御奉社(おびしゃ)」がそれぞれ行われる。
御奉社の日は、紙に画いた鴉を弓矢で射て豊凶を占う神事があり、当番家の引継ぎも当日行われる。引継の儀式はすべて無言で行われ供物は山芋の実、河骨の根、鯉である。神前に供えた鯉は式が終わると、直接手を触れることなく、箸と包丁だけで調理されるが、それはまさに妙技というほかはない。
この神事は慶長五年(一六〇〇)から連綿と続いており、他に類を見ない独特のものである。
本殿・拝殿を囲む樹林は、明治初頭には雑木、松、杉合わせて一二〇本ほどあり、その内には、樹齢一〇〇年以上のものが二三本あったと記録されている。