宝光山泉光院永台寺
この宗派は空海が、平安初期の弘仁七年(八一六)に、高野山を開いて修禅場としたのに始まり、大伝法院の創建者覚鎧によって、天正十三年(一五八五)に智山派として京都地積院に分派したものである。
もとは中本山米倉村(現八日市場市)西光寺、小本寺虫生村(現光町)広済寺末で、宝光山蓮台寺といったが、明治十年に焼失した「西の寺」と呼ばれた惣躰山養福寺と明治四十一年に合併して、永台寺と改称し本山の直末となった。
その開山を過去帳によりたずねると、
当寺法流、当寺者文永七年庚午年(一二七〇)三月十二日法印定恵開山、是ヨリ八十二年観応辛卯(一三五一)定恵ヨリ三世定岳時廃寺、観応二年(一三五一)ヨリ百七十七年大永丁亥(一五二七)三月十七日創立、宝光山泉光院蓮台寺ト号ス、此時ノ開山法印定誉ノ代法流始祖トナル
こう記されている。
なお、言い伝えとして、むかし、字小西の堂山に御堂があり、それが移転して永台寺になったという。それが今もって堂山と呼ばれるゆえんであろう。
山門は佐藤縫殿助寄進で礎石右側にその名をとどめている。
鐘堂には、かつて村人に時を告げたであろう梵鐘はなくなっているが、刻まれていた鐘銘文が残っているので次に記し、往時を偲ぶよすがにしたい。
奉造立槌鐘下総香取郡次浦村宝光山蓮台寺寺本尊者、阿弥陀如来也、願主二世之住法印頼弁大施主坂中之内
父臨節道知母芳䒾妙珍 佐藤四良左衛門
父常玄母臨菓妙慶 佐藤五良兵衛
一子清岸信士 山倉清兵衛
為三界万霊大親眷属七世之父母仏果菩提也
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆共成仏道 文
時正徳四甲午天(一七一四)五月廿日敬白
下総国香取郡岩部村之住人
治工早川庄左衛門尉藤原吉政
庫裡は五〇坪ほどで、かつて松平出雲守(前記、佐貫城主)の老母が隠れ住んだ、と伝えられる小部屋があったといわれるが、今は取り払われている。
本堂は、近年屋根替えのときに発見された棟札によると、「延宝四年(一六七六)十月吉祥日建立 御地頭重治公(松平出雲守)同代官印東清左衛門殿」と書かれている。
本尊は大日如来で、「正徳六年(一七一六)六月一六日開眼」とある。また智を表わす金剛界には「施主穴澤源五衛門」、理を表す胎蔵界には「村中総壇施主連名」とあり、前立は不動明王で、左右に弘法大師、興教大師、薬師如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩を配している。
また、別棟の小堂にも阿弥陀如来があり、また、「文政三(一八二〇)建之 永福寺法印隆圓代願主堀井仁左衛門 佐藤四兵衛」と刻まれた十一面観世音菩薩がある。さらに永福寺本尊も安置されていたといわれるが、それは昭和三十年頃、大栄町所の正等院が火災にあって本尊が焼失したため、その本尊として移遷されたという。
境内石塔場には、佐藤四郎左衛門家の壮大な宝篋印塔。村が生んだ教育者佐藤杏岱・佐藤長翠両先生の遺徳を偲んで、筆弟一同が建立した記念碑。俳人晴軒南斗、淇奥庵竹茂の句碑、第二次世界大戦の護国碑などが建てられている。
なお、隣接地は現在は墓地になっていて、永仁三年(一二九五)、元応二年(一三二〇)の板碑がある。