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路傍の小祠・石宮など

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 妙見社 字西一九一八ノ四番地にあり、城山とは五〇メートルほど隔たったところである。「奉造立妙見石宮一社 于時元禄二年己巳(一六八九)二月十五日 下総国香取郡千田庄次浦村」と刻まれ、字内小屋周辺に住む人々によって、毎年正月二十二日に御奉社が行われている。この御奉社には『御日記』があるが、元和十年(一六二四)以来の村の変遷が綴られた貴重なものである。
 本尊は尊星王と呼ばれ、北極星を信奉し、千葉一族の守り本尊として、千葉氏ゆかりの地には必ず祀られる神である。
 浅間社 字松の木下二一四一番地にある。小西下の水田に突き出た山の頂で石宮は風化して、刻字の跡もとどめていない。祭神は木花開邪姫命、女神で、火をつかさどり子育ての神ともいわれる。
 愛宕社 字大作二〇四四番地にある。浅間様とは水田を間にはさみ、およそ同じくらいの高さの山頂で、石宮には「願立惣村中世話人堀井仁左衛門 佐藤宗兵衛 高橋新右衛門 平山嘉左衛門 安政五年戊午(一八五八)正月」と刻まれている。祭神は迦遇突知(かぐつち)神、火産(ほむすび)霊神で、防火の守護神として崇められ、また王城鎮護の神として名高い。
 白山社 現在はゴルフ場内だが、通称お山台という畑地の中心であった。それは、字木の根田二二二四の二〇九である。
 石宮の刻字は「白山大権見 法印定宥 延宝二年甲寅(一六七四)霜月一四日建立」と読み取れる。これが平山家文書に伝えられ、旧惣躰神社跡と口伝される地で、大むかしの人々は、ここを囲んだ周辺に住んでいたであろうと考えられている。
 字向山一三六七番地の一の畜産センター入口に四神が一カ所に合祀されている。この所は丘の上で街道を見下す端にはかつて高さ二〇メートルもあるかと思われる老松が聳え立ち、後は深い森林地帯であった。今は松もなく畑と造成地となって四神の旧跡は辿る方途もない。その四神とは、次のとおりである。
 白幡大明神 小石宮で、「元禄九年(一六九六)六月一五日」と刻まれていて、鎮守の境内にも同神が祀られている。この社には御奉社があり、毎年二月十五日が定例日であるが、今は当番家と、その両隣が集って祝うだけになっている。
 ここに、慶長二十年(一六一五)以来、現在まで引き続いて綴られている御日記がある。それには、村の変化が各々の立場から記してあり、貴重な資料である。
 金比羅大権現 その刻文は「願主平山源右衛門 岡村長左衛門 高橋新右衛門 平山嘉左衛門 惣村中元治元年(一八六四)三月一〇日」と判読できる。祭神は大物主命で、海上安全の神である。
 三峰社 「天保十五年甲辰(一八四四)二月二十日惣村中」との刻字が読み取れる。祭神は伊邪那岐、伊邪那美命で、大口真神(狼)を眷族とする火難盗難除けの神である。本宮は埼玉県秩父郡大滝村三峯山の三峯神社である。
 鷲大明神 「奉再興鷲大明神石宮建之成就 祈下総国香取郡次浦村養福寺 于時延宝四年丙辰(一六七六)正月十五日」と刻まれ、祭神は天日鷲命、日本武尊である。穀麻を植え、紡績の業を創始した神で、別にオオトリ神社ともいい、江戸では商売繁昌の神となり十一月の酉の市は有名である。本宮は大阪府堺市の大鳥神社である。
 右四神が、字向山で一カ所に祀られている神々である。
 八幡社 字東一五五五番地にある。佐原街道坂中の坂を登る中程から、右に折れる枝道の奥の突端で、二〇メートルほどの高台から栗山川沿いの水田を見下し、遠く東は松崎神社の森、南は多古の町並みを望むことができる。石宮には「八幡大菩薩 平山五兵衛」と刻まれており、惣躰神社と同じ遷座と伝えられている社で、八幡太郎伝説の地でもある。
 「八足の塚」ともいわれたように、八方に土堤が延びた古墳の頂に祀られていた。その傍には、付近の崖から出土した石棺の石が重ねられ、別の石宮も安置されている。現在この石宮は平山五兵衛屋敷内に移され、塚足も確認できるのは三本だけである。
 祭神は応神天皇、比売大神、神功皇后で、武神として護国の神であり、源氏の氏神でもある。本宮は大分県宇佐町の宇佐神宮と京都府八幡町の石清水八幡宮である。
 庚申塔 字宮脇一八二二番地にある。佐原街道が、村の主要道の馬場道と交差する角にあったといわれるが、今は一〇メートルほど離れている。青面金剛王、その他の尊像が刻まれた石が数基あり、その刻字には、「願主米本庄兵衛 天保四年癸巳(一八三三)六月」「願主佐藤四兵衛 文政四年巳(一八二一)五月十一日」「道祖神 岡野与兵衛 天明八年戊申(一七八八)十一月十一日 奉造立尊像大願成就」「奉造立供養庚申 提成就攸 元文五年星次庚申(一七四〇)五月吉日次浦中」「嘉永三年庚戌(一八五〇)三月吉日三田市  」などと記されている。
 庚申とは十干十二支の庚申で、夜を徹して祈ることから「庚申講」、また、一夜寝ずのまま夜明けを待つところから「庚申待」ともいわれる。
 馬頭観世音 字観音堂一七八七番地にある。庚申塚から佐原街道を本三倉に向い、三〇メートルほど進んで作場道へ分かれる所に、大きな石碑が見られる。表に「馬頭観世音供養塔」とあり、裏に日清戦争の際の徴発馬差出人としての連名が刻まれ、明治三十年十一月俊功とある。
 ここに、戦場に倒れた愛馬の冥福を祈ったものであろう。
 また、水神社わきの小丘の上に、石祠が三基ほどあって、それぞれ「馬頭観世音 岡村長左衛門」「天明二年寅(一七八二)四月吉日 村講中佐藤四郎兵衛]「天明二年寅四月吉日村講中」とある。所在地は字馬洗一六八五ノ二番である。
 この付近に、「伯楽場」といわれた病牛馬の治療や爪切りをした場所があってここに祀られていたものを、後に開拓されて畑となったため、現在地に移されたものである。
 道祖神 一基は字向山一四七七番地にあったが道路改修によって、今は畜産センター入口、坂の右側斜面に移され、字向山一三七三ノ一番地に変った。多古から佐原へ向う街道で、次浦への入口に当たるところである。雑草に覆われて所在を確かめるにも困難であったが、石宮には「造〓祖神宮 願主佐藤忠右衛門 天保一七年(一八四六)二月一日」と刻まれている。
 祭神は塞の神、猿田彦で旅の安全を司る神として知られる。この神が他と異なっているのは、刻字に「〓」と書かれていることである「ハツ」と読み、旅立ちに当り、道中の無事を祈って行う神事のことをいうそうである。
 道祖神のもう一つは字内の原一七六八番地の一にある。前記の馬頭観世音から街道をさらに進むと、道は畑の間を下り坂となり、作場道と交わる右手の小高い所にある。「道祖神 延享二年乙丑(一七四五)四月吉日 次浦村別当永福寺施主藤崎平兵衛 室岡新左衛門 平野仁兵衛 佐藤武兵衛 平山喜平」と刻まれた石宮である。この神の御利益を説く老人は「顔や手足に疣や菊石ができたら道祖神をおがみ、囲りの石を借りて来て疣や菊石をさするとそれが消える。お礼参りには、借りた石を倍にして返す習わしになっている」と話し、そのいわれを尋ねると「昔、疣と菊石がいっぱいの醜い男が美人に恋をして、日夜想いを慕らせていた。ところがある日、彼女がその煩わしさのあまりに逃げ出したところ、池に落ちて亡くなってしまった。それを知らない男はたずねあぐんだ末、村はずれの街道で待つことにして、今度通りかかったら石を投げてやろうと、小石を集めて待つうちに歳月がたち、ついに化身して道祖神となった。そして、こうした悲しさを二度と人に味わせまいと、疣や菊石を持つ人々を救うようになり、一方、池に落ちた女も化身して弁天様となり、いまだに池の中にいるのだ」ということであった。
 観音様 字沼田五九番地にあり、佐原街道が本三倉境いに近いところで沼田川を渡る。この橋の右側(以前は左側)の河畔に四基ほどの石仏がある。
 破損がはなはだしいが「奉造立如意輪観世音文久三年(一八六三)」「如意輪観世音 次浦邑智円沙弥宝暦十二壬午天(一七六二)十一月吉日」「当村女人講中 文政元年戊寅(一八一八)九月吉日、「久賀村字次浦女人講中 明治一七年三月」このように判読できた。
 川施餓鬼(せがき)の供養が行われるのがここである、それは、村内または近い村々でお産のために亡くなった人があると、子安講の講中が僧侶とともに訪れて、水岸に流水灌頂の塔婆を立て、かもぢ、鏡、しだらなどを結んで回向する。傍に柄勺を添えて置き、街道を通る人々は、これで、川の水を供物に掛けて亡き人の霊を弔うという習わしである。