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教育・文化・人物

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 米本図書館
 次浦字谷一八二七番地にある。中天を覆う椎の古木を背景に立つ白亜の木造二階建洋館がそれである。

米本図書館

 現在その敷地は一、八六〇平方メートル、建物延面積は二八六平方メートルで、蔵書は約一万四千冊である。
 当館の特色は町に生まれた幕末の儒者並木栗水の著書蔵書『増補周易私断』、『宋学源流質凝』、『朱陸太極問答合編』、『天人論批判』、『義利合一論弁解』、『栗水漁唱』、『詩文集』などそのほとんどの二千余冊を現代に残していること、昭和三十二年から併設された付属短歌図書館内に一万冊を超える歌集、歌書、歌誌を所蔵していることである。印旛郡出身の歌人であり政治家でもあった吉植庄亮の著書および氏の主宰した歌誌『橄欖』を初めとし、佐々木信綱・斎藤茂吉・島木赤彦・与謝野晶子・若山牧水・平福百穂・土岐善麿・高浜虚子・河東碧梧桐・久保田万太郎などの歌集、半折、色紙、短冊などが多数保存されている。
 当館は明治四十年八月十五日に初代館長米本信吾によって自邸の一部に設立されたもので、千葉県内図書館では六番目の設立である。
 米本信吾は米本四五右衛門の長男として、明治十六年三月六日に次浦一八二七番地で生まれ、久賀小学校を卒業の後、当時県下の最高学府であった千葉中学校に学んだ。その時恩師由比質校長に、卒業後は図書館を創設して青年教育の振興と地方文化の向上に尽すように勧められたのが、創立の動機であったといわれ、中学校卒業後三年目のとき、私財をもって設立した。
 その趣旨を次のように述べている。
 
   米本図書館創立の趣旨
 日露和を媾じて以来玆に二星霜我帝国の位置復昔時の帝国を以て比すべきに非らざるなり(中略)。抑も教育の普及が日露大戦に於ける我大勝の一原因となれるものなりとは独謙遜なる将軍の辞令に止まらず多数有識者の斉しく是認する所なり。是に由て之を観るも我戦後国運の盛衰が今後に於ける教育の振否如何に関すべきものなることを察知し得べし。嗚呼教育の国家に関係を有する其れ此の如し。誰れか教養感化の道を以て今日之を等閑に付するも可なりと云うものあるぞ。由来山間僻陬の地博く書史を繙きて常識を修養するに便を缼く。豈隔靴掻痒の嘆なきを得んや。予や浅学なりと雖聊か此に見る所あり微力を顧みず敢て図書館の創設を企図す(中略)。希くは世の有識者諸君斯かる目的を遂げんが為めに玆に呱々の声を挙ぐるに至れる本図書館をして益々健全に生成発育し広く世道人心に裨益あらわしめんことを是れ予が大声疾呼して敢て諸君に訴ふる所以なり。
   明治四十年八月
                                          米本図書館長米本信吾
 
 氏は図書館長であるとともに、大正十年から昭和二十二年まで久賀郵便局長であり、郡会議員・公選初代久賀村長等の公職を歴任し、また義兄貴族院議員菅澤重雄とともに東京王子に成徳高等女学校を創立するなど多面的に活躍した。昭和四十年この功績に対して勲五等瑞宝章が贈られている。
 他の一面は文人でもあった。三十歳のとき地元宗匠観水堂旭甫に師事して俳号を旭窓と号し、後に師の名跡を継いで河東碧梧桐、平山独木両師の指導も受け原人社同人となっている。
 また、隠れた偉業として知る人のみ高く評価されているものに、十代から晩年に至るまで、自から筆を執れる間記し続けた「日記」がある。七十数年に及ぶ膨大なもので、これが公開されれば、古き良き時代の農村地主の生活のすべて、地方政界の裏面史、大正時代から昭和にかけての社会の変遷がつぶさに物語られ、まさに一大地方史ではないかといわれている。
 こうして幾つもの事業と功績を残した翁は昭和四十三年九月二十九日、八十六歳の天寿を全うして世を去った。
 これより先、昭和二十五年には図書館法の制定に伴い、「財団法人米本図書館」に組織変更して経営の安定を図るとともに、栗水文庫の維持管理に万全を期し、短歌図書館としての特色に意義あらしめることとした。
 現在は、長男重信が二代館長としてその経営に当って鋭意その充実に努力を重ね、諸公職・郵政業務・図書館運営などの功績に対して、昭和五十四年には勲五等双光旭日章を叙勲され、父子二代にわたる栄誉を受けた。