神社寺院の境内から離れ、旧街道や耕地の間に点在する小宮をたずねて、かすかに残る刻銘をたよりに村の足跡を追ってみた。
旧佐原街道を御所台から入って霜月橋を渡ると、橋の右たもとに如意輪観世音像を刻んだ石が三基ほどある。
一基には「西古内村 明治四年未九月吉日」、もう一基は「西古内 年三月吉日」と読み取れ、別の一基には「西国第一番 ふだらくやきしうつ波ハ御熊野の 那ちの御山にひゞく瀧つせ 安永七戊(一七七八)十二月十九日 妙戒信女梅香忌幻秋童子妙法信女妙覚信女円心沙弥法輪信女浄蓮信如妙禅信尼妙行信女妙賛信女 彦兵衛 伝兵衛 武七 平右衛門 古内村中御所台知孝童女」と記されている。
なお、宗教的習わしの一つとして、妊婦が亡くなったときに、流水灌頂を行うのもこの場所で、刻まれた戒名は、供養された人々のものではなかろうか。
御詠歌は、西国三十三所一番札所の那智如意輪堂のもので、観音信仰の講中によって建てられたものであろう。
街道が丘陵に突き当る所(字六万部三二六番地辺)、旧久賀中学校下の道沿いにも石碑がある。
正面に「奉順礼四国西国供養塔 多こ志ぢ山なるととほ金」、右側に「東栗源香取佐原 高橋伝之烝 菅澤平右衛門 香取佐右衛門 土屋三左衛門 寺作飯田清兵衛 大木治郎右衛門 」、左側に「西大須賀神崎奈免川 香取勘之烝 高橋長兵衛 香取儀兵衛 香取清助 香取安五郎」、裏に「明治廿五年三月日」と刻まれている。
おそらくこの年に四国西国の霊場を巡り、先祖の冥福と後生の安楽を願った記念に、道標を兼ねた碑を建てたものであろう。
並んでもう一基あり、それには、正面に「梵字 高雲院照山良応信士位 大童子峯右衛門 寛政元酉天(一七八九)五月十二日 小車四郎右衛門 多二 とら かね 施主日下山宇平次門弟中」、右側に「東つぎうらさわらみち、左側に大かど大すかみち」とあった。
この大童子峯右衛門について、『山武郡地方誌』より関係部分を要約すると、峯右衛門は千代田村(現芝山町)小原子の木川家(こうじや)で享保五年(一七二〇)頃に生まれ、幼名を峯吉といった。子どもの頃は一日中不動尊の境内で遊んでいたことから、不動様の申し子であろうといわれていたという。
長じて体格偉大(直立すると、幅三尺、長さ六尺の戸が、肩までの間に隠れて見えなかった、と伝えられている)力量衆にすぐれた若者となり、十七、八歳の頃には一里ほど離れた船越村へ百姓奉公に出されたが、そこの主人が「一カ年の給料はどれだけ欲しいか」と、峯吉の大きな体を見ながら尋ねたとき、峯吉は「一背負いで結構です」と答えた。主人は、いくら豪力でも三、四俵のところであろうと思い、承知した。すると峯吉は、二間梯子を持ち出して、それへ玄米一二俵を積み重ねて麻縄でしばり付け、縦に背負って山道を悠々と我家まで運んだ。
途中で一回、その梯子を背負ったまま休息したところ、梯子の足が芝生の中へ深くめり込んで、その跡が最近まで残っていた、と伝えられている。
のち、京都に上って力士となりついには大関となって、上覧相撲に当っては、朝廷から特に日月の刺繍のある緞子を賜わったという。晩年は帰郷して寛政元年(一七八九)五月に没した。
この峯右衛門の碑が西古内にあるわけについて、施主日下山宇平次のあとを継ぐ故香取栄助氏を訪ねたところ、宇平次は峯右衛門の支配人をしていた関係があり、そのことから支配人宇平次が施主となり、門弟関係者一同が碑を建て、供養したものであろうということであった。現在は同家によって管理されている。
なお、小車四郎右衛門、多二、とら、かねについては、史料がなく、不明である。
さらに村に向かって進むと、農道と交わる所(字下タ田三三一番地付近)があり、そこにある石塔には正面に「奉順礼四国西国供養塔 ご志よ太以 てらさく たこ はま道」、右側に「嘉永四亥年(一八五一)八月吉日建之、東つぎうら みくら かとり さわら道 菱田村戸村忠右衛門 寺作村大木惣右衛門 同飯田清兵衛 同加瀬太左衛門」、左側に「西いでぬま さわ(さわ) 大す可 西古内村香取勘之烝 同惣治衛門 同佐右衛門 同治郎右衛門 同新左衛門 戸村久兵衛 菅澤五郎右衛門」とある。これも霊場巡り記念と道標を兼ねたものである。
次は字高砂二九二番地の一に庚申塔が二基見られる。一基の正面には日月に青面金剛、台座に三猿像が刻まれてあり、これは寛政十二庚申(一八〇〇)年に建てられたものである。
小型の方には「奉造立庚申大神 文政十二庚申丑(一八二九)三月吉日 古内邑 高橋縫之烝」とある。
村の中心地字宮の下一六六番地の道沿いに道祖神が建てられている。「安永二癸巳(一七七三)九月吉日」と刻まれ、同所の手洗いは昭和十二年三月十日に奉納されたものである。この道祖神は、安産の霊験あらたかであると伝えられている。
なお、同字同地番は、旧久賀村として最初の巡査駐在所が設置された所でもある。それは明治八年十二月、多古に警察出張所が設けられてから一〇年後の明治十八年に、香取寅之助氏宅の一部を借りて、巡査豊島辰之助が赴任したことに始まる。
そして、明治四十四年四月に次浦へ移されるまで、二〇年の間、治安維持に当ったものである。
鎮守の下の道を西に向うと畑地になる。そこをさらに南へ折れて、新城の山林地帯へ進むと、畑と山林の接点のあたり(字上人塚一〇四四番地の七二付近)にある石宮で、正面に馬頭観音像が刻まれて、像の左右に「天明二寅年(一七八二)十二月朔日 右大門左高津原 願主村中」とある。現在は山林であるが、以前は牛馬の爪切場(施療所・伯楽場)であったといわれるこの地に、農耕牛馬の息災を祈って祀られたものであろう。