村の生い立ちを知る手掛りとして、村に残された名寄帳や土地台帳・年貢関係諸帳などを検討することは極めて意義深いものがある。まず土地所有者の数によって戸数が推測され、新旧の検地帳を比べることによってその面積差がわかり、開拓の進捗状況をうかがい知ることができる。年貢皆済目録によって、当時の生産量が明らかとなり、支配者が交替したときに、名主が必ず新領主に提出させられたという村鑑明細書があると、耕地面積、人口、施設のすべてが記されていて、現在との比較は一目瞭然である。
しかし、これらのいずれの文献も村内からは発見されず、往時の様相は知り得べくもない。かろうじて現存している明治九年五月五日御所台村用掛土井茂兵衛による、久賀村誕生に際しての合併請願書を見ると、「反別二十一町四畝六歩、旧村高一五九石九斗一升、戸数十八戸、人員一〇八人、内男五二人、女五六人」と記されている。
この数は戸数人員は実数であろうが、田畑の合計とみられる面積については、年貢賦課の対象となった面積が記されたのみで、総面積ではないように思われる。それは、明治政府は国費の根幹を地租税によったため、明治十五、六年頃に土地に番号を付けて実測を行った。そのときに作られた名寄帳の地目別面積は次のとおりで、明治九年の数とは大きなへだたりがあるからである。
田 反別二十三町七畝十五歩
収穫米二四七石五斗七升九合(推定年間収量)
地価金九六八〇円三三銭九厘(推定土地売買価格)
弐分半税金二四二円八厘(推定価格に対して二分五厘の税率で計算した地租税年額)
畑 反別五町七反三畝二十三歩
収穫麦五十九石四斗八升九合
地価金七四三円三十一銭九厘
弐分半税金十八円五十九銭一厘
宅地 反別一町二反七畝二十二歩
地価金二四六円五十二銭六厘
弐分半税金六円十六銭五厘
山林 反別一町二反七畝二十九歩
地価金八円七十八銭五厘
弐分半税金二十一銭八厘
その差六町歩あまりの耕地は、明治九年から明治十五、六年の間にひらかれたものではなく、明治九年頃にはすでに耕地になっていたものの、なんらかの理由で年貢の対象から除かれていたものと思われる。
ここで、明治政府が最大の財源としていた地租税について、簡単にふれるが、当初は旧来どおり、農民から年貢として徴収した米をもって国費に充当していた。しかし、現物を徴収して政府が換金するという制度は、複雑化して来た社会情勢にそぐわないものであった。そこで政府は、明治六年七月に「地租改正条例」を公布し「旧来田畑貢納ノ法ハ悉皆相廃シ」て、土地の代価の一〇〇分の三を地租税として徴収することに改めたのである。
この太政官布告は農村に大きな変革をもたらした。今までは、作った米をその現物で納めるという単純な方法で済んでいたが、これからは農民自身の手で換金し、地租税としての現金を納めることになるわけで、経済の動きを自ら観測しなければならなくなった。たとえば、収穫の秋に米の価格が暴落しても、納める税金の額は変らず、日常の生活費の他に、税金のための現金を求める手段を講じなくてはならないわけで、そのうえ、税率は土地代金の一〇〇分の三という高いものであった。単純に現在のそれと比較することではないかもしれないが、土地売買価格の三%の税率で、固定資産税が賦課されたとしたら、それは、誰しもが、そう簡単に支払い得る金額ではないであろう。
当然のことのように租税負担に関する不満が原因となり、各地に反政府運動が起こった。この近辺では、地租改正の後に、面積の掌握と所有権の確認のために行われた土地の実測調査に当って、所有権を放棄する人もあったといわれる。
所有者のない土地は国有地となり、後年、払い下げられて耕地となるが、払下げを受けてから、開拓にかかる農家の苦心については、別に述べなければならない項である。
なお、現在の村の規模は昭和五十九年現在では次のような姿となる。
水田 二四町九反九畝歩 宅地 三町四反四畝歩
畑 五町九反歩 原野 一反五畝歩
山林 一町七反五畝歩 その他 五反三畝歩
戸数 二八戸 人口 一一九人 男六九人、女五〇人