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教育文化・人物

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 並木栗水(螟蛉(めいれい)塾)
 字城一七一番地に丈余の石碑があり、「栗水並木先生碑」の題字は蘇峰徳富猪一郎の筆である。碑文は、交友内田周平撰文、門弟菅澤重雄書になり、昭和十年に関係者一同が、その偉業を後世に伝えるべく、師の創設になる「螟蛉塾」跡に建てたものである。

螟蛉塾跡

 並木栗水は文政十二年(一八二九)六月六日、父良貞(隆定)の長子として御所台に生まれた。家は善左衛門と称して代々醸酒業であったが、曽祖父昭慶が分家して医師となり、祖父柳碩・父良貞もまた医を以て業とした。本名は左門であるが諱は正韶、字を九成といい、潜庵とも号したが、栗山川のほとりに住んでいたところから、常には「栗水」を称していた。
 九歳のとき父に従って佐原に移居し、葛井文哉に四書五経の句読を受けるとともに、碩学清宮棠陰(秀堅)の知遇を得た。
 二十一歳で江戸に遊び、大橋訥庵の思誠塾に入門して頭角を現わし、塾長となった。在塾七年の後、老弱となった母への孝養のため佐原に帰り、清宮秀堅の応援を得て常照寺の一隅に塾を開き、螟蛉塾と名付けた。安政四年(一八五七)、栗水が二十八歳の時のことである。
 慶応二年(一八六六)にはこれを故郷の御所台に移し、「御所台先生」と呼ばれて多くの門弟を薫陶するとともに、師訥庵の未稿『周易私断』の完成に努め、のちに『増補周易私断』を著わした。
 明治元年正月からは、多古藩主久松勝行の聘に応じて嫡子勝慈に侍読し、十月には新政府から大学講官として招かれたが、老母の病弱のゆえをもって辞退している。そして、専ら郷党子弟の教育に全力を傾けたのである。
 螟蛉塾の授業は、毎月二と七の日が作文詩会、三と八の日が経書輪講、四と九の日が講義、五と十の日が皇漢歴史会読、一と六の日が休業となっていた。
 明治十七年七月に文部省に提出した『私塾認可申請書控』によるとその規模は、学級六級(六カ年)。授業時数が一日七時間、休業は日曜・祝日・年末年始・暑中となっている。塾舎は一二坪二階建六教室。束修(入学金のようなもの)は寄宿生一円、通学生五〇銭で、月謝が寄宿生五〇銭、通学生三〇銭。食費は月額二円となっている。
 塾生の数については、明治五年から同二十二年までの月謝収納簿が保存されているが、それによると、明治五年が八二名、同二十二年が七〇名で、最も多い年は明治十四年の一一六名である。
 これら塾生の中から、文学博士林泰輔・大審院判事寺島直・貴族院および衆議院議員五十嵐敬止・同菅澤重雄・衆議院議員大須賀庸之助など、知名の士が多く出ている。
 講読の余暇には花木を愛し、歌詩を詠じてまた酒を嗜み、五男三女に恵まれた栗水は、病を得て床に就くこと十日余にして、大正三年七月二十三日、享年八十六歳の天寿を全うした。寺作東禅寺の先塋碑に次いで葬られているが、その墓石には、表に
 
   配中村氏
         墓
   並木栗水翁
 
とあり、裏面に
 
   翁諱正韶字九成箇斉府君之長子
   以儒為業大正三年七月廿三日歿
   中村氏諱朝子上総武射郡成東町
   中村玄寿之次女大正八年十二月
   廿九日歿享年八十
 
と刻まれている。

並木栗水肖像

 飛鳥園一叟(並木七郎右衛門)
 俳壇の巨匠である。代々襲名の並木七郎右衛門家に生まれ、生年の月日は不明であるが、享和元年(一八〇一)五月五日に六十六歳で没している。
 翁は、飛鳥園一世、広岡宗瑞の門人で、飛鳥園の二世となり、一叟・紫蘭、兎什と号し、晩年、飛鳥園を門弟の貞翁(船越の人)に譲ってからは南無坊寂阿と称した。多年にわたって俳句の指導に当り、句集の出版などの文化活動に尽力した人である。
 翁の手になる句碑は、もとは東禅寺に建てられていたが、廃寺併合のため、現在は井戸山大師堂の庭に移されている。表に「山路来て 何やらゆかし すみれ草」と、芭蕉の句があり、裏には
 
       隠語銘
   草に水うつ巻艸をこかしつつ  白兎園一叟宗瑞居士
   きみがつばきを二人して
   一つうらなふその人の
   なとあらさらんことの葉を
   くらへてもふすしめすとて
   はりはかけすも其まゝに
   此日の本に霞わたらし
                                二代飛鳥園一叟営之
     寛政八丙辰(一七九六)十月十二日
 
と刻まれている。
 もう二基がやはり同所にあり、その一つには「氷(凍)らぬは氷らで寒し水の音」とあり、他の一基は、門弟たちの建立になるもので、「辞世 ほととぎす いでや明かるき 西の空 南無坊寂阿」と表面にあり、裏面には、「   辛酉五月五日 行年六十六歳 門人営之」と刻まれている。
 なお、翁の生家は近郷に名だたる素封家で、各社寺に同家の奉献物が多く見られ、村の産土社の参道石段を寄贈したり、寺作東漸寺の梵鐘も寄進したといわれる。
 また、明治十九年には同家屋敷内から、小判の封入された二個の壺が掘り出され、それは現在も大切に保存されているが、高さが十五センチ、口径が九センチほどのものである。
 小判の出土については、その検証に当った佐原警察署多古分署詰巡査野平忠右衛門が、「明治十九年一月六日午后五時頃 久賀村並木源助宅ノ縁下ヨリ 古金壱両ト記アル金三百弐拾枚 並ニ右小判ノ金久光次ト記在ル古金弐拾枚掘出シタルヲ立会シタル件」と、その手記の一節に記している。
 さらに同家からは、今回の町史編さん事業の調査に当って、蹴鞠に関する巻物四巻が公開された。それは、『蹴鞠之譜』、『鞠之伝』、『誓状之事』他一巻である。
 この巻物については、あまりにも長文であることから、ここに掲載することは省略するが、当町からの照会に応じられた蹴鞠保存会々長の旧公家持明院基邦氏は、「蹴鞠は中国より渡来したもので、その年代は明らかではないが、皇極天皇のとき(六四二~六四四)聖徳太子が法隆寺で行ったという記録があるので、その頃からのものと思われる。
 鞠をもってする一種の遊戯で、平安末期から鎌倉初期にかけて、宮中をはじめ上流武家の間に流行した。江戸時代には堂上鞠と地下鞠に分かれて民間にも流行したが、正保四年(一六四七)に地下鞠は、指導者が鞠道法違背者として流罪となって以来禁止され、堂上鞠も明治を迎えて廃絶状態となり、現在では、保存会によってようやくその技法を保っているありさまである。
 地下鞠の技術的な細部はよくわからないが、貴町(多古町)史料に見られる免許状は、禁止された地下鞠の再興を証するものとして、意義深いものである」
と、このような説明を寄せられた。
 なお、免許状の一つを参考のため付記するが、次のようなものである。
 
    一筆致啓達候 
    鞠道御入門之儀御願之
    通遂披露候処御許容ニ付
    御免状致 達候 自今
       無御隔意可申承候 恐々謹言
                          安田監物
         十二月廿六日                  資寅 花押
                          本多豊前
                                 季豊 花押
   並木七郎右衛門殿