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村のすがた

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 村がどのように生まれ、現在にどうつながっているのか、その経緯についてたずねてみたが、史料不足に加えて研究が不十分なため、満足できる成果は得られなかった。
 いずれにせよ、今回の調査の中で感じられたことは、「御所台」の項にも述べたように、御所台村と一つの村「土橋」として、近在諸村にさきがけて開発されたものであろうということである。それゆえに、千田胤貞の拠点としての城が造られ、また、後に村名のもとにもなった荘大な寺院が建てられたのではないだろうか。
 そしてかつては現在よりも殷昌の地であったかもしれないことは、幾つかの史書からもうかがい知ることができる。
 近隣の中心地であったためか、徳川時代にはすでに開発のほとんどがなされていたようで、徳川中期の耕地面積と現在のそれとを比較したとき、他の村のように大きな差は見られない。そのことは、次の名寄帳によって知ることができる。
 
     高四拾五石田畑名寄帳
   寛政四年壬子(一七九二)二月吉日写之、
                                         当名主清左衛門
        田畑名所     清左衛門
一、門谷津田五枚 一、同所い土有 一、辺田六枚 一、亀木戸五枚 一、道六神弐枚 一、船渡弐枚 一、沼下四枚 一、中谷弐枚 一、水入場谷七枚
一、屋敷番屋之畑壱枚 一、庫裏之上壱枚 一、西之谷壱枚 一、志うじ場三枚 一、御廟之後壱枚 一、庚塚壱枚 一、下野伯壱枚 一、廻戸壱枚 一、馬場壱枚 一、辺田壱枚 一、大野谷壱枚
        田畑名所     次右衛門
一、門谷津田三枚内壱枚次郎右衛門分 一、居下六枚 一、辺田弐枚 一、亀木戸三枚重兵衛分 一、沖廿六枚、廿六枚の内長ぶぢ記三枚次郎右衛門分内谷口隠壱枚新右衛門分 一、谷三枚 一、船戸九枚内下沼壱枚治郎右衛門分 一、道六神弐枚 一、船戸上壱枚 一、辺田畑三枚 一、向屋鋪跡壱枚 一、下井土前壱枚 一、上戸壱枚平右衛門分 一、同所壱枚重兵衛分 一、桐之木畑壱枚 一、石 弐枚 一、寺山根 枚 一、西ノ作壱枚新右衛門分 一、御廟之前弐枚 一、久保畑三枚 一、三角畑壱枚 一、志うじ場三枚 一、引地弐枚
        田畑名所     次郎右衛門
一、門谷津田壱枚 一、道六神四枚 一、沼下壱枚 一、谷弐枚 一、庫裏ノ上畑壱枚 一、西之作壱枚 一、野伯壱枚 一、み恵扉壱枚
        田畑名所     新右衛門
一、門谷津田弐枚 一、辺田三枚 一、道六神六枚 一、沼下三枚 一、船戸六枚 一、谷中壱枚 一、車地蔵畑壱枚 一、引地弐枚 一、のばく壱枚 一、大道壱枚 一、申畑壱枚  壱枚
        田畑名所     平兵衛
一、門谷津田壱枚 一、辺田畑壱枚 一、塙屋鋪壱枚 一、大道壱枚
        田畑名所     次郎兵衛
一、亀木戸田三枚重右衛門分 一、中畑弐枚次郎右衛門分 一、上戸畑壱枚次郎右衛門分
                 勘兵衛
一、屋敷下井戸前畑次郎右衛門分
   庫裏の上壱枚次郎右衛門分
                 利右衛門
                 市郎右衛門
一、亀木戸畑壱枚次郎兵衛分
 清左衛門分辺田畑壱枚
 新右衛門分屋敷
                 惣右衛門
一、下野伯五枚新右衛門分
                 東禅寺
一、庫裏ノ上畑壱枚
                 清兵衛
一、庚塚壱枚
                 多左衛門
一、野伯畑壱枚次郎右衛門
        田畑名所     重右衛門
一、亀木戸田壱枚 一、屋鋪畑山共壱枚 一、馬場壱枚 一、下野伯畑壱枚
        田畑名所     重兵衛
一、門谷津田壱枚 一、亀木戸壱枚 一、志うじ場畑弐枚 一、屋鋪畑壱枚竹山共右竹山当時開発畑也
        田畑名所 御所台村七郎左衛門
一、亀木戸田三枚清兵衛分 一、上戸畑壱枚 一、石仏壱枚 一、大道壱枚右三枚共平右衛門分 一、志うじ場四枚次郎兵衛分 一、辺田壱枚弐枚共次郎右衛門分
        畑名所 御所台村七郎右衛門
一、み恵扉田壱枚次郎右衛門分 一、道六神四枚 一、沼下壱枚 一、上戸畑弐枚 一、石仏壱枚 一、西之谷壱枚四枚共平右衛門分 一、同所壱枚新右衛門分 一、野伯畑壱枚清左衛門分 一、中畑壱枚新右衛門分 一、上戸壱枚次郎右衛門分 一、御廟之前弐枚清兵衛分 一、馬場壱枚重兵衛分
        畑名所 井戸山村久右衛門吉兵衛
一 引地畑弐枚
                 善左衛門
一 馬場壱枚 一、廻戸壱枚弐枚共清左衛門分
 明和二年酉(一七六五)六月ゟ(より)数代之名主次右衛門方ゟ組頭清兵衛方迠亦役渡候節、殿様御田地並畑、無反別ニ而相知不申候故、大小之百姓持来候、田畑之名寄並売地ニ仕候出作之百姓迠銘々田方畑方相改名寄不残仕、其名を高帳書付銘々印形取添申候、覚書以而如件
   明和三年戌(一七六六)二月廿五日
                                          名 主 茂兵衛
                                          組 頭 治兵衛
                                          百姓代 次郎右衛門
 
 この名寄帳には面積の記入がないうえ、後年の加筆と思われる箇所がかなりあって難解な文書であるが、村に残された数少ない古い名寄帳なので、全文を載せてみた。地元の人達が見れば当時の耕地の所在もわかり面積の推計もほぼできるかもしれない。また所有者が現在と比べてどう移り代っているかなどについても参考になると思われる。
 
     米雑穀有高一村限り書上帳写
                                   下総国香取郡多古村組合寺作村
        覚
一、玄米七拾俵此石弐拾八石但し四斗入
         名主清兵衛外六人
一、大麦八俵此石三石弐斗 同断
一、大豆三俵此石壱石弐斗 同断
村人別男女四拾弐人
 卯三月廿九日より五月廿九日迄日数六十日
 一日壱人ニ付玄米三合麦弐合
 玄米七石五斗六升 備置
 大豆五石ト四升  同断
差引残而
  玄米弐拾石四斗四升 同断
  麦壱石八斗四升不足分追々新麦引当
馬五疋
  大豆之無ニ付売栗ニ而飼料
 一大豆壱石弐斗 種豆分
 右の通りニ御座候  以上
                                上田〓(コウ)助知行所
  寄場多古村                                下総国香取郡寺作村
                                           組頭 次右衛門
  大小惣代                                     名主 清兵衛
  御役人中様
 
 この文書は、飢饉などに備えて村々の保有食糧を調査したものと考えられるが、年号の記入もなく、いつの時代のものかわからない。宛先の寄場多古村から推しはかると、組合村が作られたのは、文化二年(一八〇五)に関東取締出役が設けられてからのことなので、文化以後明治以前の間の卯年ということになる。そして、当時は村民四二人、馬五疋であったことがわかる。
 さらに明治の初期になると次のような文書が残されている。
 
     高反別石盛書上ケ帳
             上田〓輔上知
             小田切愛之助上知
             下総国香取郡
              多古村組合
                 寺作村
一、高八拾八石六斗八升   下総国香取郡
  此反別九町八畝廿歩    寺作村
  内訳
  高四拾五石      上田〓輔上知
一、反別四町七反五畝弐拾八歩
  内 田高弐拾七石  高壱石ニ付弐斗六升七合取り
一、反別弐町四反四畝拾四歩半
  内 上田高拾六石五斗七升五合
一、反別壱町壱反拾五歩     石盛十五
  内 中田高四石壱斗四升四合
一、反別三反四畝拾六歩     石盛十二
  内 下田高弐石弐斗五合
一、反別三反壱畝拾五歩     石盛七ツ
  内 下々田高四石七升六合
一、反別六反七畝弐拾八歩    石盛六ツ
  畑高拾八石    昨辰年永納ニ奉願上候
一、反別弐町三反壱畝拾四歩
  内 上畑高拾四石四斗
一、反別壱町六反        石盛九ツ
  内 中畑高壱石弐斗七升
一、反別弐反壱畝七歩      石盛六ツ
  内 下畑高壱石弐斗
一、反別四反          石盛三ツ
  高壱石壱斗三升
一、屋敷壱反壱畝九歩      石盛十
一、高四拾三石六斗八升 (同村)小田切愛之助上知此反別四町三反弐畝廿弐歩
  内 田高弐拾六石五斗七合九勺弐才 高壱石ニ付弐斗六升八合取り
一、反別弐町壱反五畝弐拾 
  内 上田高弐拾壱石壱升七合五勺
一、反別壱町四反三歩半     石盛十五
  内 中田高壱石六斗八升四合九勺七才
一、反別壱反四畝壱歩      石盛十二
  内 下田高七斗三升弐合
一、反別壱反拾四歩       石盛七ツ
  内 下々田高三石七升
一、反別五反壱畝六歩半     石盛六ツ
  畑高拾七石壱斗七升弐合七勺九才。昨辰年永納ニ奉願上候此反別弐町壱反六畝廿七歩
  内 上畑高拾四石四斗壱升三合
一、反別壱町六反弐拾三歩    石盛九ツ
  内 中畑高壱石壱斗六升三合
一、反別壱反九畝拾壱歩半    石盛六ツ
  内 下畑高九斗壱升七合
一、反別三反拾七歩       石盛三ツ
  高六斗七升三合三勺
 屋敷六畝弐拾弐歩       石盛十
 右者当村高反別石盛其外書面之通り相違無御座候 以上
                                       寺作村伍長 治右衛門
   明治二巳年                                  什長 清兵衛
  宮谷県御役所様                                 組頭 惣右衛門
 
 この書類は明治になって、宮谷県に引き継がれたもので、これまで上田、小田切両旗本家に納めていた年貢、比率を書き上げて、新管轄庁である宮谷県に提出したものである。
 反別の下に記してある石盛の数字は、上中下等に分けられた土地の平均収量を一斗で除したもので、「一ツ」とは一斗のことであり、石盛十五とあれば反当り一石五斗の収穫量ということになる。石盛を面積に乗じて高の数量が計算され、その高の何割かが個人の納める年貢となるわけである。
 その年貢は、当地区ではどのくらい納めていたのだろうか。ここに明治五年の年貢支払済証(皆済目録)があるので参考に供したいが、これは明治とはいいながらも徳川時代そのままの形態によって租税事務が処理されていることから、徳川期のもの同様に考えても差し支えはない。
 
     辛未租税皆済目録
 高八拾八石六斗八升四合 下総国香取郡寺作村
一、米弐拾石五斗七升五合
  斗立弐拾壱石七斗五升壱合
  内 米拾弐石四斗壱升四合   正納
    斗立拾三石壱斗弐升四合
    米八石壱斗六升壱合   畑米石代
    斗立八石六斗弐升七合
    代永三拾五貫百八拾文九分
一、米五斗八升八合
  斗立六斗弐升壱合
  内 米三斗五升五合     正納
    斗立三斗七升五合
    米弐斗三升三合     畑米石代
    斗立弐斗四升六合
    代永壱貫三文弐分
 合米拾三石四斗九升九合
  永三拾六貫百八拾四文壱分
    右払
  米九斗六升壱合壱勺  運賃米石代渡
  代永三貫三百拾壱文五分
  納合米拾三石四斗九升九合
    永      
  右者辛未租税其外書面之通令皆済ニ付 小手形引上一紙目録相渡者也
    明治五年壬申十二月 新治県
                                         右村里正
                                           組頭
                                           百姓代
 
 これが、寺作村として納めた年貢である。
 前出の『高反別石盛書上ケ帳』によって村の耕地面積は数字となって表わされたが、さらに明治となってからは、一年ごとに番号を付しての近代的測量技術によって、詳細な台帳が作られた。その地目別集計は次のとおりである。
 
     地引簿
   右
 反別拾四町四反拾壱歩  民有地壱種
   内訳
一、田反別 四町六畝廿八歩
一、畑反別 六町三反五畝廿四歩
一、宅地反別 八反弐畝壱歩
一、木立反別 三町壱反五畝拾八歩
一、社地反別 七畝拾九歩     二種
反別 三町五反六畝九歩      三種
   内訳
一、畑反別 六反四畝弐歩
一、木立地反別 弐町七反六畝廿三歩
一、柴地反別 七畝拾壱歩
一 溜井反別 廿七歩
一、墓所反別 五畝四歩
一、斃馬捨場 拾八歩
一、馬療治場 弐畝六歩
寺院境内弐反五畝三歩       四種
総計反別拾八町弐反九畝拾四歩也
右者今般税法御改正ニ付、銘々持地私共立会従前〓田切開縄伸之類迄不残地毎取調箇所落者勿論〓歩等一切無御座候、若心得違之儀有之後日顕ニ於ハ如何様之御処分有之候共毛頭申分無御座候、因玆一同調印以奉申上候 以上
                                           右村飯田清兵衛
                                             大木治右衛門
                                             惣百姓不残
 
 人口については、明治九年、久賀村が生まれるときに合併願書が提出されたが、その中に次のように記されている。
 
   寺作村戸数一一戸 人員五一人 男二四人 女二七人
 
 以上断片的ではあるが、土地面積、人口についての資料を年代順に記してみた。いずれにせよ、徳川期における増加には著しいものがなかったようである。
 次に比較資料として、昭和五十九年の現況を紹介しておきたい。
 
   田   三町二反一畝歩      宅地  一町六反一畝歩
   畑   八町二反一畝歩      原野  二畝歩
   山林  六町五反一畝歩      その他 八畝歩
   戸数  一三戸
   人口  五七人
   男  二九人
   女  二八人