当村は、かつて御所台村と一つの村であったことは前述のとおりであり、改めて記すべき史料もない。概略は御所台村の項とほぼ同様である。
しかし徳川氏が関東を治めた初期は、歴史と寺格を誇る東禅寺の寺領であったため御朱印地として年貢は従来どおり寺に納めていたようである。
寺社領は時の為政者による年貢の対象とならず、天正文禄の検地からも除外されており、したがって両検地帳に村名が記されていないうえ、村内からも面積などの記入された土地台帳は発見されていない。
やがて隆盛をきわめた東禅寺も、貞享(一六八四~八七)の頃の火災以後寺運が衰え始め、そして他村同様に貢納地となるが、理由として、火災による朱印状の消失のことがあったとも伝えられている。
寺領としての特権を失ってから村を治めた者は誰なのか、次の久賀村戸長役場文書によると
旧草高及旧社寺領石高取調書
下総国香取郡久賀村
一、石高八拾八石六斗八升四合 元寺作村
内
旧邸 甲府土手小路
旧地頭 総高七百石
四拾五石 上田〓助采地
父 上田兵左衛門
旧邸 東京麹町三軒家
旧地頭 総高三千石
四拾三石六斗八升四合 小田切愛之助采地
父 小田切土佐守
右者本年県庁乙第廿八号御布達ニ基キ 当村旧草高及所轄沿革調之儀 前書之通り相違無之候間此段上申候也
明治十四年六月廿二日
右村
戸長 津嶌宇左衛門 印
内務省地理局御中
このように記されている。
そこで、旧地頭といわれる上田、小田切両氏の系譜をたずねてみると、上田氏は、三河以来の徳川家臣で、脇屋治部大輔義助家から分家し、十代佐右衛門常義のときに上田姓を名乗ったという。十四代元俊(兵庫とも)は天正十八年(一五九〇)に、武蔵国橘樹郡内で二百五十石余の地を受けて旗本となり、慶長十四年(一六〇九)七月十二日に八十一歳で没。
元勝(万五郎)のとき寛永十年(一六三三)に、加増とともに大番に任ぜられ、すべて三百石となって采地を上総国市原、下総国香取の二郡内に移された。寛文十一年(一六七一)四月二十八日に六十四歳で没している。
元隆(兵左衛門)の時代、元禄十年(一六九七)にさらに二百石を加増され、武蔵国の采地を上総国武射、下総国香取の両郡に改められた。このときの移封によって、寺作村ははじめて上田氏の知行地になったようである。
元党(むら)のときの寛政元年(一七八九)には、身元保証人のない家来を雇った科で逼塞させられ、続いて同三年(一七九一)に屋敷を甲府に移された。そして、同八年六月二十九日に五十二歳で死去し、甲府東光寺村東光寺に葬られた。以来上田氏はこの寺を菩提寺として、代々甲府に住んでいる。
知行地の寺作村のことについては、主として名主清兵衛家によって治めさせていたようである。
明治に至ったときは総高七百石余で、郡内の采地は伊能村の一部であった。当主は〓輔といったが、その後の消息、没年などについては不明である。
小田切氏は、信濃国佐久郡小田切村の出身で、武田信玄の家臣であったと伝えられ、光猶(喜兵衛)のとき天正十四年(一五八六)に徳川家康に仕えた。
慶長二年(一五九七)九月に武蔵国橘樹郡内で采地百五十石を受けて旗本になったが、同十九年(一六一四)八月に四十四歳で没している。
須猶(もちなを)(喜兵衛)は、寛永二年(一六二五)十二月上総国天羽郡内で百八十石を加増され総高三百三十石余となった。万治元年(一六五八)五月には京都御所の警備を命ぜられて、摂津国嶋上、嶋下両郡の内でさらに千石の加増を受け、同じ年の十二月には従五位下美作守に叙任している。寛文二年(一六六二)七月十八日享年五十六歳で没し、江戸赤坂松泉寺に葬られたが、その後小田切氏はこの寺を代々の墓所とした。
直利(喜兵衛、土佐守)の代は、天和二年(一六八二)四月に上野国山田、新田両郡内で五百石の加増を受けて後、御目付、大坂町奉行の職を経て、元禄元年(一六八八)十二月には従五位下土佐守となり、同十年(一六九七)七月下総国豊田、香取二郡内で三百石の采地を賜わるが、このときに寺作の一部が小田切氏の知行地となったようである。
これによって武蔵国橘樹郡、上総国天羽、武射郡、下総国豊田・香取、摂津国嶋上・嶋下、上野国山田・新田、下野国芳賀の一〇郡内の采地高は二千九百三十石余となった。
直廣(喜兵衛)のときには享保元年(一七一六)に小笠原家の断絶に際し、豊前国中津に赴いて城受取の役を勤めたりなどのことがあり、直年(喜兵衛、土佐守)の代へと移るが、明和二年(一七六五)十二月に西城御書院の番士から駿府町奉行。その後大坂町奉行、江戸町奉行の職につき、寛政九年(一七九七)両国橋普請の責任者になったりなど、三千石の大身として、明治に至るまで代々村を支配した。
郡内の采地は一鍬田・大寺・桐谷・鏑木・南堀之内の各村々で、村の治政は主として惣右衛門家を名主としてこれに当らせていたようである。
明治になったときの当主は愛之助といい、後出の『天満神社沿革御届書』にその名が見られるが、事績や没年などについては不明である。