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天満神社 由緒・縁起

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天満神社

 字寺山一一二ノ二ノ二番地に所在する村の鎮守である。明治十二年九月に組長総代大木治右衛門が戸長に報告した文書によると、
 
一、祭神 菅公
一、由緒 右天満大神ハ古老伝聞ニ土橋山東禅寺別当仕来候処、貞享季中頃悉焼失之節本社拝殿類焼、火中出現絵象菅家直筆ト云々、且縁記書類等は土橋山東禅寺再三度焼失故更無之
一、社殿間数 間口八尺五寸 奥行一丈
一、拝殿間数 間口三間 奥行二間
一、境内坪数 二二八坪
一、境内神社 無御座候
一、氏子戸数 十一戸
一、境内立木 杉一尺未満一八五本
       松一尺未満九本
 
とあり、さらに明治十五年七月の久賀村役場文書に
 
       沿革御届
                                     香取郡久賀村ノ内寺作
                                             天満神社
[第百拾四番字西ノ谷] 一風致官林八畝拾壱歩
 年月不詳   創立
 文久元年五月 小田切愛之助知行
 明治元年五月 知県事柴山文平支配
  同二年二月 宮谷県管轄
  同五年三月 新治県管轄
  同六年四月 新治県管吏出張天満神社境内分裂境外管林トス
  同八年五月 千葉県直轄
 運輸     林下より佐原村河岸マテ五里、夫ヨリ東京マテ利根川路四十二里
 四至境外   東ハ本村社地境内 南山林 西ハ墓地 北ハ本社境内
 地勢     平地
 地質     クロ土
 事故     社景風致ノタメ故
 気候     極寒三十度 極暑九十度
 普通物産   無之
 特有物産   無之
 収入     無之
 右之通り取調候処相違無御座候 以上
 
と記録されている。
 さらに、枯損木を売却して社殿の修繕に充てたときの関係文書が、次のように残されている。
 
   天満宮社境内損木処分願
                                      香取郡久賀村元寺作
                                          無格社 天満社
一、境内官有地、立木総数百六拾壱本
一、杉木一本風折目通壱尺壱寸 長サ弐間
一、同一本立枯目通壱尺八寸 長サ弐間
一、同一本立枯目通壱尺八寸 長サ九尺
一、同一本風折目通壱尺五寸 長サ弐間
 右者十五年九月頃より枯木小口より自然相朽損木相成候ニ付而者、差向本社破損之箇所有之ニ付右損木売払代金ヲ以テ本社修繕費用ニ仕度候間、御許可有之度此段奉願上候 以上
   明治十八年四月十日
                                  右社氏子惣代大木作治 印
                                       飯田長五郎 印
                                      大木治右衛門 印
                                       右社祠掌都祭正胤 印
  香取郡長大須賀庸之助殿
 前書願出候ニ付、当役場扣ノ社寺明細帳及ヒ、境内竹木現数調帳ニ突合、且ツ実斉ニ就キ篤クト検分候処相違無之候間奥印仕候也
                                 久賀村戸長津島宇左衛門 印
 庶第八四七号
 書面願之趣聞届候条神官並戸長立会公売方可取計且入札払済ノ上代価ノ義ハ更ニ可届出事
   明治十八年四月十三日
                             千葉県香取郡長大須賀庸之助代理
                               千葉県香取郡書記大田壮太郎 印
 
 以上の史料によって、明治初期における同社の様相の一端をうかがうことができよう。
 他に史料が見当らないため、創建の時代、由緒などは明らかにすることができず、残念であるが、土橋村時代の鎮守はすでに御所台妙見があることから、同社は、東禅寺の学僧達によって勉学の神として京都天満宮から分祀されたものである、との見方は許されないであろうか。
 天満宮は菅原道真を主宰神とする神社で、天暦元年(九四七)京都北野に道真の霊を祀り、天満大自在天、火雷天神と称したことに始まるもので、室町時代に全盛期を迎え、やがて文道の大祖、文学詩歌の神と崇められながら、天神講のもとともなったものである。
 本殿側面の彫物は、柳の枝に跳ぶ蛙を雅趣豊かに画いたもので、参道に並ぶ梅の古木とともに、えもいわれぬ風情を添えている。
 また、寺宝として、旧社殿が火災になったとき焼け残った一幅の軸物があり、それは、菅原道真の自画像と伝えられている。かすかな焼け傷を残しながらも衣冠束帯の座像は損なわれてはいない。別名「酒酔天神」とも称されているが、それはこの軸を掛けて酒宴を催すと画像の菅公の顔が赤くなると伝えられているからである。

菅公自画像

 ことの真疑は別にしても、南天の木で作られた鼓胴と、天神社の護符の版木とともに、現在も飯田清兵衛家に保管されている。
 特に画像については門外不出の重宝として、芸術品とも見まがう立派な箱に納められており、今もってこの習わしのとおり守り続けられている。火中にあって焼けなかったのも神威の至すところと、近隣の村々からも尊崇を寄せられ、その分祀は各所に見られる。
 さらに管公自筆のことが事実とするならば千年余、貞享の火災からでも三百年余を経ているところから、美術史上からも数少ない貴重なものであり、個人、一村の範囲を越えた文化財として永く後世に伝えたいものである。