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由緒・縁起

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 多くの史書にその名をとどめる名刹も、数度の火災によってその形はすでになく、往時の伽藍は偲ぶべくもないが、明治十二年の社寺明細帳には次のように記してある。
 
   千葉県下下総国香取郡久賀村字寺作東禅寺
                                  本山同国匝瑳郡虫生邨廣済寺末
                                         新義真言宗 東禅寺
一、本尊 阿弥陀如来
一、由緒
 右寺度々焼失致シ書類等一切無之但鐘銘有之左ニ録ス。
 奉新鋳係梵鐘一口
 下総州香取郡千田庄寺作村土橋山東禅寺阿弥陀院ハ、伝ヘ聞ク往古天平年中唐之鑑真和尚来朝而創建之霊場也、自天平于今凡九百三十余歳其砌時ノ御所依リ尊崇美々敷七堂並ベ甍ヲ建テ伽藍ヲ懸ケ梵鐘ヲ仏陀安-置阿弥陀如来之尊像、神明崇太神宮徳風ヲ因玆密厳仏国ノ粧偏皈ス此寺院、雖然代及繞季時至末法七堂伽藍数々省略而僅ニ構フ殿堂ヲ、剰至リ貞享年中之比ニ悉焼失シ鳬鐘同焚滅ス、時ノ寺主僅ニ構ルモ堂宇ヲ功不足鳬鐘未成、于爰有篤信、善者御所台村並木七良右衛門慈父道栄三十三回遠忌ナリ当ル此時同人舎兄道秀三十三回之忌晨ニ将一節也、是以為彼追福造立此鐘菩提之当資糧者也、且亦悲母妙光禅定尼妻女心月良慶兼テ亦並木氏之一家九ケ村中念仏衆前亡後滅之霊魂為脱苦徳楽立此梵鐘者也 紅月円翁乗空菩提也
   一打鐘聲 当願衆生
   脱三界苦 得見菩提
   諸行無常 是生滅法
   生滅々己 寂滅為楽
   願以此功徳 普及於一切
   我等与衆生 皆共成仏道
                                     施主御所台村
                                           並木七郎右衛門
                                  願主法印定済時代也
   于時元禄九年丙子(一六九六)二月吉日敬白
                                 鋳物師下総国香取郡千田庄岩部村之住人
                                       早川庄左衛門尉藤原政次
                                       同名 平兵衛尉藤原吉次
 
 清宮秀堅北総詩誌曰、御所台村係古河成氏寄寓地云々、鐘銘所謂御所依尊崇者蓋指成氏歟。詩誌又曰、千葉胤直墓、在寺作村東漸寺。胤直家宰原胤房納古河成氏嘱、勧胤直上杉氏絶。胤直不聴。胤房慍之密導成氏兵千葉。城陥。胤直奔多古、其子胤宣奔志摩。享徳四年八月、多古・志摩並陥、胤直父子、自殺于土橋東善寺中阿弥陀堂。其臣椎名胤家以下数十人死之。土橋今名寺作。鎌倉大草紙、作東覚寺。蓋、善草体訛覚、漸善音近之移。
 又曰寺作村東禅寺、有千葉胤直、及、其家臣円城寺某等七人墓碑。厚胤茂雖主建五輪巨石、而碑面不一字。当時之制然耶。将、胤茂自愧之、故没其迹乎。亦未知也。
 又曰、享徳四年八月、僧中納言房、時在東漸寺。観千葉胤直以下数人死、不悲慕之情。潸然賦歌、自投於栗山川。事見于鎌倉大草紙
 古老伝説舊幕府之初朱印地七十五石ヲ賜フ、貞享年中朱印ヲ焼亡ス因テ其地ヲ召上ケラル、今ノ寺作ノ地是ナリト。
 久賀村(従前九ケ村)中同宗寺院十ケ寺アリ、然ルニ寛保ノ比迄九ケ邨同宗埋葬ノ節無常導師ハ於当寺相勤ム、近時ニ至ル迄其三四ケ寺檀越ヲ除クノ外於当時相勤ム。
 
     寺谷村東禅寺什物届書
一、本堂一宇 間口八間半 奥行六間
一、大日如来座像 但シ木像也長二尺九寸五分 仏師不詳
一、不動尊立像 但シ木像也長三尺知証大師御作也
一、大師座像二体、一体ハ貞享四年卯(一六八七)八月、一体ハ元禄九年(一六九六)長一尺六寸
一、梵鐘一口、円径二尺四寸、縁厚二寸五分、施主御所台村並木七郎右衛門、元禄九年丙子(一六九六)二月吉日、鋳物師下総国香取郡千田庄岩部村、早川庄左衛門尉藤原政次、同苗平兵衛尉藤原吉次
一、鐃鉢一具、目方六百目、文政九年(一八二六)二月廿四日、土橋山三十一世法印光隆求之
一、両界 二幅
一、涅槃像 一幅
一、酒酔天満宮像 一幅 但シ破損
一、境内二段五畝三分 官有地
 
 このように、梵鐘碑文ならびに清宮秀堅の詩文から、『鎌倉大草紙』を引用して縁起を述べ、什物届書によって明治初期の模様の一部を伝えている。
 なお村岡良弼は、詩集『北総詩史』の中で東禅寺について
 
 寺作村東漸寺、称土橋山阿弥陀院。有千葉胤直父子、及、円城寺尚任等七人墓焉。按鎌倉大草紙、古河成氏与上杉氏兵。時、原胤房受成氏嘱、与成氏絶。胤直従之。胤房愠、竊導成氏兵、陥千葉城。胤直奔多胡、其子胤宣奔志摩。享徳四年八月、多胡・志摩並陥、父子自殺土橋阿弥陀堂。其臣椎名胤家以下数十人死之。胤房荼毘遺骸于此、為立五輪巨石。今所存者是也。
 
と、内容的には清宮秀堅と同じことを記し、
 
   古墳来弔涙縦横
   禍起蕭牆大廈傾
   落日鐘声東漸寺
   多胡城望志摩城
 
 このように詠んでいる。
 創建者と伝えられる鑑真和尚は、中国揚州で生まれ、十四歳で大雲寺智満のもとに出家。長安・洛陽で学び、戒律に造詣が深く、またその布教に多くの貢献をした学僧で、日本に来朝してからは奈良の東大寺に戒壇院を創り、授戒の師として崇敬を受け、京都に唐招提寺を開いて律宗の祖と仰がれた。天平宝字七年(七六三)五月に入寂している。
 この寺が今日に至るまで広く人口に膾炙されているのは、関東武者の名門千葉家正統がこの寺内で自害して絶えたということと、中世の記録の空白を埋める意味で評価の高い、金沢文庫の古文書に数多くその名をとどめているということによるものであるといえよう。
 千葉家正統の終焉については、北朝康暦元年(一三七九・南朝天授五年)から、文明十一年(一四七九)までの間の関東の争乱を書き続けて『太平記』の脱漏を補い、「太平後記」とも評される筆者不明の史書『鎌倉大草紙』に、十六代千葉介胤直と同族原胤房、馬加常輝などの戦いが記され、「享徳四年(一四五五)八月十五日、土橋という所に如来堂ありける――」と胤直が郎党とともに自害した悲劇の場所として東禅寺を書いている。
 現在も境内西隅の墓地に、刻名もなく苔むした七基の五輪塔が並び、郷土史家の訪れは絶えることがない。
 金沢文庫は、鎌倉幕府執権北条義時の孫金沢実時が、文応元年(一二六〇)頃、母の菩提を弔うために采邑六浦荘金沢郷に念仏堂をつくり、また同地に和漢の貴重書を多数集めて文庫を創立したことに始まる。
 遺志を継いだその子顕時、孫貞顕により堂には七堂伽藍も建立され、寺号も実時の法名から「金沢山弥勒院称名寺」と改められ、境内の文庫もいっそう充実した。
 下野国の足利学校とともに、関東における学問の府としても重要な存在であったが、元弘三年(一三三三)鎌倉幕府の滅亡に伴い、寺運とともに衰微した。
 なお、同文庫の蔵書の多くは慶長六年(一六〇一)に江戸城へ、さらに明治になってから内閣文庫と宮内省図書寮へと移された。そして現在は、所蔵する典籍文書数は約二万点といわれ、県立図書館として研究者の利用に供されている。
 東禅寺は、この称名寺住職の隠居寺であったといわれ、同文庫に保存されていた両寺間の往復文書がこのほど解読された。このことが、鎌倉幕府の公式記録といわれる『吾妻鏡』が文永三年(一二六六)の記事を最後としていたところから、鎌倉中期以後についての信頼すべき資料として高い評価を受けている。
 現在の東禅寺は二〇坪ほどの堂宇があって、御所台・寺作両旧村一三戸ほどの真言宗の人々が、宗教行事の場として使用している。
 本尊は阿弥陀如来で、かつて阿弥陀堂があったといわれる地にふさわしい仏像である。その左右には真言宗の始祖空海(弘法大師)像、新義真言宗の開祖覚鑁(ばん)(興教大師)像が配されている。
 同じ内陣に大型の位牌が二基あり、千葉氏数代の戒名が併記されていて、わずかに千葉氏とのかかわりを残している。