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村の起こり

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 村の始まりは、通説としては、大化の新政(六四六)で公地・公民、戸籍、班田収授の制定などとともに生まれたといわれている。
 昭和四十年頃に字上人塚の畑から、偶然曲玉が発掘されたことがある。曲玉が使われた時代は、神武天皇から欽明天皇(五四一)の頃までといわれているが、その頃にどのような人が住み、また現代の人との関わりがどうであるかはわからない。しかし、いずれにせよ上人塚周辺は人類が生息したという立派な証しといえよう。
 井戸山の村名が文献に見出されるのは、金沢文庫文書によってである。同文庫の蔵書によって多くの学憎が育ち、関東の学府ともたたえられていたことはすでに述べたとおりである。
 この文庫を管理運営していた称名寺の三世湛睿(たんえ)(後述)は寺作東禅寺の住職であったことがある。このような関係から、両寺間に取り交わされた書簡が多数文庫に保管されているが、この書簡は、両寺をとりまく往時の社会情勢を断片的ながら詳しく記してあり、北総の史家にとっては重要な文献である。その一文『識語編』に「元弘三年(一三三三)九月五日 土   為井戸山入道百日」と、写経文の末尾に記されている。
 これは、地名を姓とした武将と思われる人物「井戸山入道」の百日供養に写経した断片が、現代に伝えられたものと思われる。このことは、村に城があったと伝えられることとも符合し、字名に残る北の内、坪の内、出戸などうなづける。ただ「井戸山入道」という人物や城の規模、城主の姓名などは不明である。あるいは歴史に残る土橋城の支城として、建武三年(一三三六)、享徳四年(一四五五)の両戦には重要拠点の一つであったのかもしれない。
 さらにもう一文の『僧侶編』(湛睿書状)には、
 
 遂令申入候、良文房俄逗留申候、愚身承候之趣と、三日御状之趣と、すこし相違之躰候之間、僧中にも難量之由被申候、今井戸山入道跡と知事被申候は空日房門に松の候所を指被申候、彼所者、余はしちかに候上、又小家一ならでは不可叶候、僧中よりも如此被申重、恐惶謹言
 
と書かれているが、この文には年月が記されていない。差出人湛睿の略歴によって大体の時代を推定してみると、湛睿は文永八年(一二七一)に生まれ、東大寺戒壇院より出た泉州久米多寺の学僧で、華厳宗の名僧である。鎌倉光明寺、極楽寺、武州大和田普光明寺などで教義を広め、嘉暦元年(一三二六)十二月頃には寺作東禅寺の長老であったという。貞和二年(一三四六)に、称名寺住職として没している。これらのことから大体の年代を知ることができよう。
 時の東禅寺住職湛睿が井戸山入道の跡について記したもので、現在それと思われる場所は、木に登ると九十九里の海が見え、大きさと形の良さが近郷に名だたるものであったといわれる上人塚の松の所かもしれない。
 字上人塚八五二番地の三の四に「大松の跡」と呼ばれる塚があり、その上に建てられた石は、「 治十四巳四月(明治十四年か)」とだけ判読できるがこれは多分、伐採された年月ではないだろうか。
 以上が村の起こりについて知り得たことであるが、村名のいわれなどについては頼るべきものはなかった。