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村の支配者

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 村の統治者として最も早くその名をとどめているのは、鎌倉時代末の井戸山入道である。この一族は千葉氏の末裔で、徳川時代初期まで村を統治していたものと思われるが、系譜をたずねても手がかりはない。
 徳川時代初期に、初めて村を領地の一部として支配したのは、天正十八年(一五九〇)に矢作城四万石の城主として甲斐国から移った鳥居彦右衛門元忠で、その支配は、元忠の子左京亮忠政が陸奥国岩城に移る慶長七年(一六〇二)まで続いた。
 その後慶長から元禄の間は、幕府直轄の天領として代官支配が続けられた。このことは、元禄四年(一六九一)の「御高改帳」の宛名が代官になっていることからもうかがえる。
 そして元禄十年(一六九七)頃から六給地となり、総高二百石あまりの内から六人の旗本に年貢を納めることになったのである。
 次に、六人の旗本の系譜、知行面積などについて述べてみる。
 松平家 清和源氏義家を祖先として、その孫義重は上野国新田庄寺尾城に住んで新田を姓とし、それから九代後の親氏は三河国加茂郡松平村に移り住んで松平を名乗った。徳川家康の宗祖である。さらに七代を経て、信孝のときに別家して三河国碧海郡三木(みつぎ)に一家を構え、三木松平とも呼ばれた。その子重忠は家康に仕え、天正十八年に家康が関東に入ったとき大番の頭となっている。
 重忠の次男忠利は慶長二年(一五九七)に五百石の旗本として一家を独立したが、これが井戸山を知行地とした松平家の初代である。慶安二年(一六四九)一月十五日に六十八歳で没し、目白の養国寺に葬られたが、それより同家ではここを菩提寺としている。
 その子忠義は、元禄十年(一六九七)七月に下総国香取・匝瑳両郡の村々で采地五百石を賜わり、以後代々これを襲封したが、香取郡内では森戸・大門・井戸山、匝瑳郡では野手村がその知行地となった。享保元年(一七一六)七月二十五日に没している。
 その後、忠政・忠高・忠朋・忠方と続き、その子忠敷(のぶ)(安房守)は天明八年(一七八八)二十一歳で父の跡五百石を継ぎ、寛政九年(一七九七)十二月、従五位下安房守に叙任、さらに子孫がこれを承けて明治を迎えた。
 明治十四年戸長津島宇左衛門の報告文書によると「総高五百石。東京土手四番町に居住、当主松平春之烝、先代は松平九郎右衛門。知行高三十八石五斗八升壱合」となっている。井戸山での知行面積は、田三町八反七畝一二歩、畑一町二反六畝二七歩、屋敷六畝二五歩である。
 そして年貢の収納状況を示す一例として、次の文書がある。
 
      未御年貢皆済目録
 一、高三拾三石     井戸山村
 一、米拾三石五斗六升  本途延口米共
 一、永八百拾弐文五分  畑方本途永
 一、鐚百文       秣草代納
  合テ米拾三石五斗六升
    永八百拾文五分
     渡方
 米壱石        名主組頭給分
 〃弐斗        田方荒永引
 〃三石弐斗五升弐合  風損ニ付被下候
 〃三石五升四合四勺  新田皆無引
 小以〆七石五斗六合四勺
 納合米六石五升三合六勺
  永八百三拾七文五分
  右者去未年貢本途小物成其外書面之通り令皆済候付小手形引上ケ一紙目録相渡ス上ハ重而何様之手形差出而も可為反古もの也
    万延元年(一八六〇)十一月
      九郎右 印                             右村名主
                                        組頭
                                        惣百姓中
 
 瀬名家 初代貞世(正四位下、伊予守)は清和源氏の流れをくむ遠江国見附城主で、正平の頃侍所となり、文中元年(一三七二)には鎮西の探題にうつってしばしば戦功をあらわしている。
 初め今川を名乗っていたが、五代後の陸奥守一秀のときに駿河国庵原郡瀬名村に移り住んでから瀬名を姓とするようになった。
 さらに四代を経た政勝は天正十二年(一五八四)から徳川家康に仕え、のち、大和国で采地三百石を賜わった。そして、慶長五年(一六〇〇)関ケ原の役に従い、のち大番に列せられている。
 孫の弌(かず)明のとき元禄十年(一六九七)七月に知行地を下総国匝瑳・香取二郡内の村々に移されて、香取郡内では森戸・大門・井戸山、匝瑳郡では野手の村々を支配した。大坂の鉄炮奉行などを勤めて、寛保三年(一七四三)一月二十八日に八十五歳で没し、四谷妙行寺に葬られたが、同家では以後代々この寺を菩提寺とした。そして井戸山村地頭の一人としての瀬名家は、明治に至るまで変ることなく続いた。
 明治十四年の報告書には「総高五百石 当主瀬名俣治郎先代は瀬名源五郎 知行高四十一石三斗三合」となっている。知行地面積は田四町二反八畝七歩、畑一町六反一畝一六歩、屋敷六畝二五歩で、幕末の名主は長左衛門が勤めている。
 その納貢の一例は次のとおりである。
 
     未御年貢皆済目録
 一、高三拾三石六斗六升    井戸山村
  取米拾三石四斗九升    本途口夫米共
  〃永八百五拾文五分壱厘  畑屋敷本途口永共
  内米三石壱斗三升弐合   違作ニ付引方被下候
  〃壱石八斗三升      田方水腐ニ付引方被下候
  〃弐斗          田方荒地曳
   米八斗         名主組頭給米分被下候
  〃五斗五升七合六勺    運賃八分割引被下候
 小以〆米六石五斗壱升九合六勺
 納合米六石九斗七升四勺
   永八百五拾文五分壱厘
  外ニ鐚百文        秣代納
  右之通り皆済勘定仕奉差上候 以上
                                 下総国香取郡井戸山村
                                     百姓代 長兵衛
    安政七申年(一八六〇)正月                      組頭  三右衛門
                                     名主  長左衛門
  瀬名源五郎様御内 御用人中様
 
 篠山(ささやま)家 村上源氏の流れをくみ、伊勢国五箇の篠山に住んでいたことから篠山を姓とし、織田信長の家臣であった。
 資家が天正十年(一五八二)から徳川家康に仕え、のち伊勢国の代官職となり、慶長五年(一六〇〇)八月伏見城の戦で、鳥居元忠などとともに討死している。
 資家の曽孫資門のとき、元禄十年(一六九七)七月に采地を下総国香取郡内に移され、このときから篠山家は井戸山の地頭の一人となった。
 資容は、資門の二男で、母は多古藩主三代松平豊前守勝義の娘である。元禄十六年(一七〇三)七月に父の知行地である近江国甲賀郡・下総国香取郡の両郡内で三百八十石を分けられて一家を創立した。ここで、村の地頭は本家から分家に移されたわけで、郡内での知行地は観音・坂・井戸山であった。享保十一年(一七二六)一月十日に四十八歳で没し、牛込鳳林寺に葬られたが、以来同家ではここを菩提寺として資峯・祐遠・資宣・資昌と続き、明治を迎えた。
 明治十四年の報告書には、「総高四百石。当主篠山金治郎、先代篠山庄右衛門。知行高三十石一斗一升七合、知行面積は田二町九反一畝十二歩、畑一町三反一畝二十九歩、屋敷五畝十歩」とあり、幕末の名主は六兵衛であった。
 そして納貢の一例は次のようになっている。
 
      未ノ御年貢皆済目録
 一、高弐拾六石
  米九石九斗七升七合  御定免納辻
  但シ延口共四斗入
   内米弐斗  田方永荒地引
   〃四石   違作ニ付御用捨被下候
   〃六斗   名主給米ニ被下候
   〃四斗壱升四合壱勺六才  運賃米ニ下ケ渡候
 差引〆四石七斗六升六合五勺九才   御上納辻
  外ニ
 一、永六百六拾八文三分六厘   畑永納
 一、鐚百文           馬草代納
  右者去ル未ノ収納米小物成共書面之通令皆済候付小手形相渡もの也
                                        篠山金治郎内
    安政七申年(一八六〇)二月                         松本五兵衛
                                        右村役人
 
 大河内家 清和源氏頼光の流れをくみ、足利義氏の家臣であったが、後に吉良義郷に属した。
 基高は吉良義昭の家臣として多くの戦功があり、その四男正澄は天正十二年(一五八四)徳川家康に仕えて一家を創立し、慶長五年(一六〇〇)の上田城の戦、大坂の両陣に参加するなどの活躍をして、寛永二年(一六二五)一月七日五十六歳で没し、牛込の願正寺に葬って以来同家はここを菩提寺とした。
 その子は政憲で、寛永二年に、武蔵国橘・上総国武射・下総国葛飾の三郡内で二百石の知行を受けている。
 その養子政真のとき、元禄十一年(一六九八)七月に五百十石の禄高になって、上総国武射郡・下総国香取郡の二郡内に知行所を移された。このときから大河内家は井戸山村の地頭の一人となったわけであるが、そのときの采地は武射郡では古和、香取郡では原宿・丁子・郡・井戸山の各村であった。そして以後代々村の地頭として明治まで続いた。
 明治十四年の報告書には、「総高五百十石。当主大河内又之助、先代大河内善左衛門。東京牛込寺町住居。知行高九十四石二斗五升五合、知行面積田八町八反八畝十四歩、畑三町九反三畝十三歩、屋敷一反六畝十九歩」となっている。幕末の名主は治郎右衛門が勤めており、納貢の一例は次のとおりである。
 
      去ル未ノ御年貢皆済目録之事
 高八拾四石
 一、御米八拾六俵壱斗七升五合
  但シ延口共四斗入   御定免納辻也
  内弐拾七俵壱斗    御用捨米ニ被下候
   弐俵        治郎右衛門江被下候
   弐俵        名主給米ニ被下候
   三斗        押砂入永荒地引ニ被下候
   弐斗        押砂普請夫喰ニ被下候
   壱俵九升弐合壱勺五才  永荒地引ニ被下候
   壱俵弐斗        年寄江御慈悲米ニ被下候
   六俵壱斗五升八合五勺  運賃米ニ被下候
 小以〆四拾壱俵弐斗五升七勺
 差引残而
  四拾四俵三斗弐升四合三勺  津出シ米也
    外
 一、永弐貫六百四文八厘  畑方之納
 一、鐚弐百文       秣場之納
  右者去ル未ノ御年貢米永共書面之通令皆済者也
    安政七申年(一八六〇)二月
                     御地頭所用所
                                    御知行所井戸山村
                                          名主
                                          組頭
                                          惣百姓中
 
 吉田家 宇多源氏佐々木の流れから出た家で、厳秀が近江国吉田庄を所領したことから代々吉田を名乗ったが、この厳秀は出家号で六郎といい、佐々木三郎秀義の子で弓の名手として知られ、弓道吉田流の祖である。
 源頼朝が天下統一の後、兄の佐々木定綱が本国近江に帰住するとき、所領の内から吉田の庄を分けられたことから吉田を家号とし、後に出家して近江国蒲生郡狭々城大神宮の別当職になっている。
 それから八代後の徳春(のりはる)は、山城国角倉に移って足利義満・義持に仕え、同国紀伊・綴喜の二郡内で所領を受けた。晩年には医術にすすんでいる。
 その曽孫宗桂は足利義晴の侍医を勤めていたが、天文八年(一五三九)天龍寺の長老策彦とともに明国に渡って彼の地の医術を修め、同十六年(一五四七)再び明に渡ったときは明帝の病をいやして異域でその名を高めた。恩賞として数々の什器医書を贈られ、門人も増え一家は繁栄した。
 子の宗恂も医業を継ぎ、豊臣秀次に仕えて旧領を知行し、慶長五年(一六〇〇)には御陽成帝の病を治療している。後に徳川家康の側に勤仕して山城国紀伊・綴喜二郡内で采地五百石を受けた。家康の信任厚く、数十巻の医学書を著述している。
 吉皓(きっこう)は慶長十五年(一六一〇)に父宗恂のあとを継いで家康の侍医となり、駿府城に勤めた。同十八年(一六一三)法印に叙され、のち大坂の両陣にも従軍している。
 その孫宗恬(むねやす)も医師を勤めた。元禄十年(一六九七)に二百石の加増があって下総国岡田郡内の村が采地となり、総高は七百石となった。同十四年(一七〇一)二月に岡田郡の知行地を香取郡内に移されたが、郡内での知行地は観音・坂・井戸山の村々であった。
 以降、宗恮・宗偸・宗懌・宗惜などに続き、代々明治まで村を知行した。明治十四年の報告書には「東京表六番町住居総高七百石。当主吉田朗先代吉田意安法印。知行高三十石一斗三升五合、知行面積田三町七畝三歩、畑七反六畝二十六歩屋敷六畝二十五歩」とあって、幕末の名主は久右衛門である。そして納貢の一例は次のようになっている。
 
      未ノ御年貢皆済目録
 一、高弐拾六石
  内田高弐拾弐石四斗四升三合四勺
  此納
  米九石六斗五升六勺   御定免
  内畑屋敷
  高三石五斗六升九合五勺
  此納
  取永五百文
 俵ニして
 一、米弐拾四俵五升六勺  但シ延口共四斗入
  内米弐俵壱斗六升五合 田方違作ニ付引方被下候
  〃壱俵弐斗      名主組頭ニ被下候
  〃拾俵        御飯米廻米江戸送り
  〃三斗弐升      運賃米引
 引合テ米九俵ト壱斗六升五合六勺
            払米相場五斗迄
   此石代金七両弐分ト壱朱八厘七毛
 一、金弐分      畑永納
 一、鐚百文      秣場納
  右之通り皆済勘定目録奉差上候若シ間違等有之候ハヾ認メ直シ可奉差上候  以上
                                  下総国香取郡井戸山村
                                       百姓代 吉兵衛
                                       組頭  新兵衛
                                       名主  久右衛門
   吉田意安法印様
    御内御用役衆中様
 
 町与力給知 五人の旗本の知行地のほかに与力給知として二十五石分の天領があり、その年貢は与力の給料に充てられたという。この知行地については名主がなく、五人の名主が一年交替ぐらいで年番名主となって諸事をとりはからっていたようである。
 与力は南北両町奉行所に各々二五人ほど勤務して、代々世襲の形で江戸府内の治安維持に当っていたが、その職権は武士または神社仏閣には及ばず、町人に対してだけのものであった。そして、この職は転役転勤もなく固定されていたようである。
 知行面積は田二町五反歩で納貢の一例は次のとおりである。
 
      未年 覚
 高弐拾五石
 一、米弐拾六俵弐斗
   内壱俵        名主給
   〃壱俵六斗八升四合  運賃米被下候
  差引残而弐拾三俵弐斗壱升六合 津出シ
    外ニ
 一、鐚三百拾四文      夫銭
 一、同九拾四文       沓藁代
   〆鐚四百拾弐文
  右者去ル未ノ収納米小物成共書面之通り令皆済小手形相渡者也
    安政七申年(一八六〇)二月
                              佐瀬祐太夫
                              佐瀬徳次郎
                                         右村役人中