明治十二年の『神社明細帳』には次のように記されている。
一、祭神 日枝太神
一、由緒 不詳
一、社殿間数 六尺四方
一、拝殿間数 四間に二間
一、境内坪数 一五〇坪
一、境内神社 無御座候
一、氏子戸数 四八戸
一、境内外山林で三〇年以上の立木百五〇本。内杉の最も大きなもので目通り七尺余り、松で目通り一丈一尺余り。
日枝大神は日吉大社ともいわれ、本社は滋賀県大津市坂本にある。大山咋大神を主神とする古い信仰から出たもので、古事記にも記されているほどの古社である。
また、山王権現とも称され、東京都永田町の日枝神社は徳川家代々の産土神として尊崇されている。特に山王祭は時の将軍の上覧もあり、神輿が江戸城にも入ることから天下祭の名で知られている。
建築の時代をたずねてみると、本殿の中に二枚の棟札が残されているが、その一枚には表に、「聖主天中天加陵頻加声 惣戒師釈迦如来 地頭松平山城守 村井半左門 遠山次右門 印東清右門 奉再功造立山王権現新社下総国香取郡千田庄井土山村別当薬師寺 衰愍衆生者 我等今敬礼 別戒師観世音菩薩 当村蓮福寺 大工久左門 工勘七郎 久三郎 権四郎」、裏には、「旹寛文六年丙午(一六六六)卯月大祥吉日 当村 但馬守 新左門 次郎右門 久右衛門」と記されている。
もう一枚の表には「聖主天中天、迦陵頻加声 惣戒師釈迦如来 導師寺作村東禅寺 大工当村渡邊直右衛門家次 同処菅澤宇兵衛盛次 奉造立山王権現新社壱宇成就之処別当山王山薬師寺照盛代 衰愍衆生者 我等今敬礼 別戒師観世音 井土山村蓮福寺 同当村加瀬権重郎 同処前橋長十郎」、裏面に「享保拾壱丙午天(一七二六)十一月廿八日 当村前橋新兵衛 同処加瀬次郎右衛門 同処前橋新左衛門 同処加瀬長左衛門 同処加瀬久右衛門 前橋勘兵衛 前橋与右衛門 渡邊次郎兵衛 菅澤惣右衛門 加瀬太兵衛 金一分儀兵衛 金一分惣兵衛 金一分利兵衛」と書かれている。このことから、寛文六年(一六六六)に初めて本殿が造られ、享保十一年(一七二六)に現在の本殿が造営されたもののように推測される。
当社の「御備社(おびしゃ)」と称される祭礼は、例年一月八日に行われているが、このときの神前への供物は、炭火を入れない大火鉢の上に、約三センチ角ほどに切ったのし餅を屋根形に積み上げたもので、儀式が終ったあとこれを境内に集まった村人達の上に振り撒くならわしになっている。