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縁起・由来

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 大師堂は字大井戸九五番地にあって、現在も寺としての外観を保っているのはこの堂だけである。
 また、石芋大師の伝説は広く世に知られており、境内の泉は当時と変らぬ清らかさでその名残りをとどめている。次にその縁起を記してみる。
 
     芋大師縁起
 爰ニ下総国香取郡井土山村芋大師ノ由来者、仁王五十二代嵯峨ノ天王ノ御宇、弘仁弐年辛卯(八一一)秋一人女性有道ノ辺リ成ル井戸ニ於テ芋ヲ洗イヲレリ折リ節、年頃四十余リ成ル毛高僧一人立竒(寄)給而女性向而宣様者、汝其芋壱ツ我ニ給ト乞ヘ共此女天姓慳貧邪見ニシテ而云様者、此芋申者石芋迚煎不煎焼テモ不焼進セ候トモ御用立不申ト云テ大ニ悋ミ而可出気色不見者、彼ノ僧思ニハ女人者別欲深事男子増云而所望失立退キ給フ、其時此ノ女大師共不知芋ヲ洗我家ニ皈リ是ヲ煎ル事ヤヽ艮雖トモ久ト更ニ不煎如ニシテ石食スル事不能、終ニ彼ノ井戸ニ捨テ女性債思フ様者、先程我芋ヲ給乞御僧者紀州高野山弘法大師成ラン我等如キノ極悪者ヲ為救諸国ヲ廻リ御教化有聞伝、且者悦又者我芋悋シ事ヲ悲ミ天ニ仰キ地ニ伏シ雖歎ト其甲斐無、然而其芋日ヲ重ネ月ヲ経テ目ヲ芽(キザシ)葉ヲ生シ青々而常ノ従リモ芋猶鮮也、夏ノ、炎天ニ雖逢ト枯事無冬雪霜ヲ雖経ト更ニ萎(タオル)事無シ、見聞ノ男女不思儀ノ思ヒヲ成シ件ノ女者我罪障深事ヲ人人ニ懴悔シテ而右ノ由ヲ語ル、是聞輩者信心増シ結縁ノ利益ニ預ル者数不知各々香花燈明備エ貴賤群集セリ。其後正徳二壬辰年(一七一二。これを抹消して享保八年(一七二三)と書き改めてある)高野山奥院木食上人(快勝と添書有り)者大師ノ御夢想ニ依テ三月廿一日ノ夜芋井土御参詣遊シ恭敬礼拝給者時、得有縁輩者従上人御十念授ル人モ有リ上人御夢想不空事ヲ祝ヒ感涙流而高野山ニ御皈被遊、其後彼上人御影石以テ御歳四十二歳ノ大師之御尊像奉リ刻ミ下総国香取郡井土山村芋大師ト札ヲ付南海船ニ浮ベ、程無香取カ浦ニ上リ給ヒ誰云共無井土山芋大師高野山ヨリ下リ給ト、風ニ聞キ村里人々奇異ノ思ヲ成シ各々御迎ニ参リ井辺ニ一宇ノ小堂ヲ建立シ、芋大師奉安置種々供養成シ大師御名号念仏唱利益蒙者数多有、従夫今ニ至迄信心祈仰ノ男女所願成就セント云事無シ就中懐胎安産守(以降なし)
 
 このように書かれ、余白部分に「今度寺作村三之宮重右門眼病平癒ニ付二間半四面御堂建立シテ明和七寅年(一七七〇) 開帳出 候」と細字で記されている。

石芋大師の井戸

 内陣には、縁起書にみられるように御影石で造られた尺余の本尊が、昇り龍下り龍の彫刻のある立派な厨子に納められている。そのかたわらに不動尊像と、阿弥陀如来と思われる像(損傷あり)が納められている。
 そして本堂棟札が保管されてあり、それには
 
(表) 「聖主天中天迦陵頻伽 下総国香取郡井土山村蓮福寺法印宥映 威徳院法印義寛 奉造立大師堂二間半四面台宇念願成就之攸 衰愍衆生者 我等今敬礼 同国同郡寺作村導師東禅寺法印快意敬白 当村年番渡邊次郎兵衛 賀瀬長左衛門 同名市左衛門 前林新兵衛 賀瀬治郎衛門 渡邊六兵衛 棟上餅寺作村大木惣衛門 願主三之宮重右衛門    村宇兵衛 源田村利八 大工同村利恵八 菱田村伝七 木引井土山村清三郎 御所台村新蔵」
(裏) 「明和七庚寅星(一七七〇)四月吉日 高津原村二百文若衆中 井戸山村百文吉兵衛母 井戸山村茅百把次郎兵衛 同村茅三十把市左衛門 同村茅百二十把庄兵衛 同村茅百廿把四人 高津原村同五十把金兵衛 高津原村茅三十把三郎左衛門 同村同六十把庄左衛門 同村同三十把半兵衛 同村同三十把伊兵衛 次浦村同 駄村中 井戸山村  五百文清三郎」
 
 このように記されている。
 この本堂に、新しく昭和四十八年四月に一棟が建て増しされて、隣接する青年館とともに村のすべての集いの中心になっている。
 正面扁額には、第七番弘法大師詠歌「おも可げをうつして見れば井戸の水 むすべば胸のあかやおち奈ん」と書かれ、「昭和十年十一月二十一日 奉納安藤久太郎」とある。