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寺域の石碑・石塔

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 また古い寺から移されたものなのか境内には幾つもの石塔があり、それを堂前の右手から辿ってみると、「奉供養光明真言二百落又之攸 元文三年戊午天(一七三八)七月十有二日 下総国香取郡寺作村土橋山東禅寺」「落又講二百四十八人善男善女各願 寺作村七人 井戸山村三八人 古内村三三人 桧木村五人 次浦村三一人 作三倉村一人 飯笹村一七人 住母家村五人 御所台村一四人 高須原村四二人 大門村一四人 出沼村三人 三倉村二一人 小三倉村五人 大原村一一人 一坪田村二人」、「本願主当寺二十世法印神快開眼主当寺廿一世法印照盛願以此功徳普及於一切 我等與衆生皆共成仏道 自法」とそれぞれ刻まれている。
 手洗には、「奉納御宝前 下総国香取郡御所台村施主並木氏 真阿宗実信士善左衛門 観阿妙実信女 為二親菩提也寺作村土橋山東禅寺 二十三世法印浄性敬白 延享五戊辰歳(一七四八)二月二日」と表面に刻まれ、裏面には「屋形村海保伝右衛門」とある。
 常夜燈も一対あり、「文化十癸酉(一八一三)十二月吉日 生国雲州有田氏男 住居当国埴生郡上福田村願主喜兵衛」の文字が見られる。
 その隣には「光明真言一億三千万遍就成攸 光明講中法印義寛 宝暦四甲戌天(一七五四)二月廿三日 井戸山村薬師寺」と刻まれた石塔がある。
 この塔と並んだ住職の墓石と思われる卵塔には、「宝永八年(一七一一)」、「天明六年(一七八六)」、「文化八年(一八一一)」などの年号が読み取れる。
 入口近くの県道に面したところに六体の地蔵菩薩があって、その案内板には「子育て六地蔵 昭和四十八年四月十三日 字水神場より大師堂境内に遷座す」と経過が書かれている。刻字は「享保十五庚戌(一七三〇)三月日 善男善女成就所」とある。
 六地蔵の右側に観世音菩薩像があり、「十九夜待当邑」の文字と観音信仰講中の名が見える。
 このほかに句碑が二基あるが、御所台並木七郎右衛門一叟翁にかかわるもので、東禅寺から移したといわれている(御所台の項参照)。
 この堂の左手奥に行くと小池がつくられてあり、その上部には旧道が名残りをとどめている。池の中には土を盛った石枠が造られ、そこには里芋が四季を通じて栽培されている。そして池の周辺に林立しているのが三十三観音碑である。
 これは近隣村々の子安講の本山ともいわれるもので、いまでも二月十五日の縁日には婦人達の参拝でにぎわっている。なお、造立年月は不明である。
 観音石碑群と並んだ碑には「般若心経廿万巻法寛盛 権大僧都法印義寛 法印寛秀」とあって裏面に俳句と思われるものが刻まれているが、読み解くことはできなかった。
 同所にもう一基句碑があり、表に「古池也蛙とびこむ水の音 芭蕉」、裏に「氷らぬは氷らで寒し水の音」、「夕暮れは空に声あれ鐘に雲 三世、文政六年癸未(一八二三)弥生日 園老黍堂書」とある。
 なお、隣村の一叟翁の門人達が多かったためか、句碑はこのほかにも多く見られる。