前項にも述べたように、かつては幾つかの寺院があり、それぞれの信者に支えられて繁栄していたようであるが、現在はその跡さえさだかとはいえない。
明治四年三月十日に渡邊次郎兵衛、加瀬久右衛門、加瀬次郎右衛門らが調査した報告書によると、
真言宗恵徳院(威徳院とも書かれている) 非課税境内八〇坪
真言宗蓮福寺 非課税境内九〇坪
大師堂 非課税境内六九坪無住
地蔵堂 墓所一八坪破損ニ付無堂
観音堂 墓所二五坪
薬師堂 墓所三二坪
このように、六カ所に寺や堂があったと記されている。ついで区有文書によってその寺堂の跡をたどってみた。
恵徳院 字堂の前九九三番地にある墓地の石塔には「明和六年己丑天(一七六九)五月威徳院法印義寛 蓮福寺法印宥快 惣村中」と刻まれている。また、天保三年(一八三二)に松平安房守の家臣が村内を巡視に来たときに差し出した文書『御見分御案内帳』にも恵徳院の名が記されているが、明治七年二月には廃寺届けが出されている。
明和時代に栄えたであろうその跡は、現在字北の内九九六番地であるとも字水神場地内ともいわれている。
蓮福寺 字北の内九九八番地がその跡で、水神山蓮福寺といい、前掲の元禄四年(一六九一)の御高改帳、寛文六年(一六六六)の鎮守本殿の棟札などにすでにその名をとどめ、明治七年戸長前橋勘兵衛の報告書によると、「稲荷山村(現大栄町)大聖寺末寺で檀家は三十九軒。住職は山田榮順五十八歳、佐賀県藤津郡丹生川村生まれ、同郡塩田村本能寺に於いて文政十二年(一八二九)三月十二日得度、嘉永五年(一八五二)三月十八日当寺に入山」とある。
さらに同十一年の調査には「字堂の前四八番地、境内坪数一九三坪、建物六〇坪、木数二十三本、住職権訓導林真照千手院住職兼務」となっている。
これが同十二年の寺社台帳には「祖本山牧野山観福寺、本寺稲荷山村大聖寺末新義真言宗、本尊阿弥陀如来、由緒不詳堂宇間数九間半五間半、境内坪数一九二坪、檀徒人員二三〇人」となり、同十三年寺院録檀家調によると、檀家数は五六戸となる。
同十七年に境内の風折木の払い下げによって本堂の修繕を願い出ていることからみて、同寺が最後に残った寺といえる。昭和二十年頃まで建っていた鐘堂には、寺作東禅寺の梵鐘が吊られていたが、太平洋戦争末期に、兵器の原材料とするため供出されてしまった。
薬師寺 鎮守日枝大神の項に掲載した寛文六年(一六六六)と享保十一年(一七二六)の棟札に「別当山王山薬師寺」と記され、元禄四年(一六九一)の御高改帳にも載せられているが、明治四年には墓地三二坪の一隅に堂宇のみが残されていただけのようである。そして同十二年に廃寺境内払下帳に記帳されたが「払下げ人之無」となっている。そのあとをたずねても明らかでなく、当時の社寺台帳も、字北の内九九六番地で三畝歩がその廃寺境内だといっているが、それは恵徳院跡と重複している。
なお、観音堂、地蔵堂はいずれも墓地内にあったようであるが、いまは跡も残っていない。