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村の古文書など

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 古戦記 原本は所在が不明で、題名もさだかでない一冊の写本がある。内容は「土橋城落城秘話」とでもいうべきものが再写筆されたもので、史実はともかくとしても興味のある物語であることから、ここに判読可能な部分を掲載して参考に供したい。
 
     仮題 土橋城落城秘話
 鎌倉時代ニ金磨判官元茂ノ次男岡田四郎義茂弐万石ヲ領シ御所台城ニ在城シ、後北条経時執権時代五代ノ孫岡田三郎之茂ガ結城七郎ニ亡サレタリトアリ。此ニ関スル物語リノ東漸寺ニ伝ハリタルヲ、御所台ノ舊家並木七郎右衛門ニ蔵セラレタルヲ、更ニ井戸山ノ豪家加瀬家ニ譲渡セラレタル古文書ニヨリ、知ルヲ得タル侭左ニ録スルコトニスル。
 保元平治の世の乱れ源平の戦ひも治まり、源の頼朝卿日本惣追捕使征夷大将軍に成らせ給ふ。後軍功ある諸侯に高録を下し給ふ中にも、金麻呂判官元茂の次男岡田四郎義茂は弐万石を領し、下総国香取郡御所台に在城仕給ひ、此頃軍場にいとまあらさるが故に、百姓も神仏の事をとり忘れ、尊き大師にも、一枝の香花をさゝぐる者もなく、悲しきかな金仏も埋れて月に村雲の覆ふが如く年をふるといへ共名号を唱るものなし。人の心の定らずむなしく月日を送りける。頃は鎌倉将軍惟康親王の御時執権相模守平経時也、爰に御所台の城主は此時五代の孫岡田三郎之茂武威盛んにして、巧みに近江を領し家臣岡田喜内松浦内工頭両士、主人に悪逆を進め奉り内々陰謀廻らし給ふ。老臣宮崎儀左衛門と言ふもの是をいさめ奉るといへとも承引なく既に其色をあらわさんとす。此事はやくも鎌倉へ聞へ給へばひそかに、結城七郎信義に謀り事を仰せて追討させける、謀計の命を蒙り帰国し家臣猪山為右衛門に仰つけ娘を岡田の妻に嫁すべく由云入させんためとて上下の二十人余御所台城へおもむきける。
 右の趣きかくと云入れければ、之茂城内に呼入使者の間に通し、其旨た津袮給ふに猪山慎しみて主人よりの書を渡したるに、三郎殿開き拝見し大いに悦び喜内、内工頭を一間に呼び、結城より娘を送り縁組を望む。是大望成就せん事近きにあり結城も我が武名におそれての事なるべしと邪意に心おごり彼をも味方に付べしと喜内、内工頭に申付饗応をさせ、使者の心をためさせける。喜内悦び猪山をもてなし二、三日逗留あるべしと元の座に付き、猶も酒宴の折から古今の名家盛衰の物語などせし内に、内工頭申しけるは今鎌倉の執権北条氏も源頼朝公の領を押領にひとしく将軍有りてなきが如し。当城先主金麻呂判官元茂を始めとし、源氏再功の士数多あれ共北条が為に一国を保つことあたはすと云ければ、為右衛門答へて成経貴丈の仰せの通り私共主人も元は、右大臣の御連枝なり。斯く時至らさるこそ残念なりと申ければ喜内兎角に時節の至る事あるべしと盃をとりかわし給へは、はや日もたそがれにいたりけれども、いまだ盃半ばを廻り給へ共皆々いたく酔て其の夜は退出いたしけり。
 
     御所台城落城並ニ高燈籠合図の事
 抑も御所台城の有様は南は数丈の谷間あり。西口荘々たる深山なり、北は大手にて、東にからほりを構へ眼下を見おろせば広き田地にして、然も其の中に一と筋の大川あり千田川なり。水上は桜田権現の溜池を限りとし、夫よりしていく筋の流れ落ち合ふて巡り/\てこゝに渕となり、又沼あり常に朝日に輝き銀水の如く夜は月水面を照らし、里人漁船のいとなみいとこまやかなり。釣するかかり火は星の如くに眼下に見へたり。
 去れば岡田三郎之茂この東西に新殿を造り、遊行風景の席とし是に猪山を招き酒宴あり。時に為右衛門眼下の風景を見給ひ、世にもおもしろき哉と賞歎し主人結城在城にも近き利根川あり此川坂東太郎と申して東国第一の大河なれ共風流は当城にをさ/\及びかたしと申ければ、岡田喜悦のあまり太刀一振給はりける。為右衛門大に喜び恩を謝し、又申上けるは某事恥しき義に候へ共此上の御願は船遊行願ひ申し度由申上げたれば、何よりいと易き事と早速船手より数艘の船を出し、幕を張り御供の人々我おとらじと来り乗る。為右衛門おもふ子細ありければ近習壱人召連れ、御座船に乗り、二十余人之兵士を城内に残しおきける、頃は文永九年七月八日午の刻より酉の刻まで船の上の酒宴なり。為右衛門近士の面々酒興に乗し油断の体を見すまし忍びより短刀抜く手も見せず三郎殿を取っておし伏せ、心窩を一と突に突き通し手早く川へ飛びいらんとするを、内匠頭大酒にいたく酔ふといへとも主人の大事と見るより立つ間もなく大刀抜きはなし、丁と切掛給へば、猪山運のつき腰の附合を切りさけたり。猪山が家の子後にありしがかくとより大刀抜き放し、主人の敵一人も逃さじと当るを幸ひ切りまはれば、御座船大に騒動し生酔の者ども上を下へと同士打す。されど多勢に無勢かなはずして猪山主従討れけり。時に岡田三郎殿は猪山が一刀によわりうつぶしに臥し居たるに、内匠頭猪山なりと心得て主人三郎殿を取違え川へざんぶと打ち捨てたり、悪の報いぞ是非もなし。
 
     落城岡田喜内討死の事
 頃は七月八日の事なれは農夫の家々に高燈籠と言ふものを揚げ精霊を祭り数軒の家毎にわれ勝ちに高きを悦び揚げ給ふに、時と云ひ刻といひ暮をかぎりのことなるか不思議や此燈籠揚るを合図に城内一度に燃え上り四方八面法螺吹き立金鼓を鳴らし、鯨波の声おびたゞしく船手には主人討たれ騒動大方ならず、内匠頭訖と見かえれば数万の寄勢殊に城内に火もえかゝりければ扨は結城めが謀事よなやす/\と主人を討たせ、其上残りし士卒城に火を掛けしかと初めてさとると云共詮方なく船を岸へつけんとすれども主なき下人の臆病武士内匠頭が言葉も聞き入れず、思ひ/\に漕ぎ失せたり。
 暫時に城を攻め落し船手より上る松浦を弓矢の的となしければ松浦大いに怒り飛び来る矢先を切り払へ共用意あらざる素肌武者飛来る矢先払へかね終に討死したりける此所を御幕渕又は轡渕とも云へたり。
 然れば香取郡御所台城主岡田三郎元茂を亡す謀事は為右衛門水練の達者なれは日暮に及び三郎殿を船中にてさし殺し、廿余人は城内に残り四方に隠れて火を掛け焼き給ふ時分を見合せ、結城の後詰めの軍勢火の手を見て不意に押し寄せ夜戦に亡す手立なり。されども為右衛門運つたなくして、松浦か為めに切り込まれ主従二人討死す。城内には岡田喜内大いに驚き下知を伝へて防がせければ早本丸にも火掛りければ、種々支へ戦へども叶はずして腹掻き切って失せにけり。すべて打死七十六人其の余は皆逃け行きけり。御所台落城し結城の人数も勝どきをつくり帰城をこそはしたり。即ち信義殿より使者を以て鎌倉へ此旨言上し給ふ、夫より御所台之城滅亡し、跡は名のみぞ残りける、世にも哀れなりけり。