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村の生いたち

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 『和名抄』『延喜式』等によって考えると、高津原は、もと原郷に属したものと思われる。
 『和名抄』記載の下総の項で本町関係と思われるものに、玉作郷・中村郷・原郷があり、原郷は現在の高津原周辺であるとする説が多い。また、『延喜式巻二十八兵部式』の中に「諸国馬牛牧ノ内下総国[高津馬牧浮島牛牧]……」と記される高津馬牧が、現在の高津原周辺に存在したと、『香取郡誌』も次のように述べている。
 
 此地(注・原の地)西北大須賀原に連り兵部式又下総国高津馬牧あり、高津原村是と接す。徳川氏の時此処に遊牧せしむ。原郷の彊域之に因りて概見すべし。
 
 高津原入会地に大聖原とよばれているところや、あるいは染井区の原郷など、十余三から染井に至る周辺一帯が原郷と称したものであろうか。『延喜式』にいう、高津馬牧が高津原にあったという証拠は、いまはなにも残っていない。しかし、桧木区に古代馬牧跡が現存する(桧木区において詳述)ことなどから、原ノ郷が、その後、郷里制がくずれて、再び血縁を中心とした自然集団へと細分化されてゆくうちに、高津原の地名が生じたのではなかろうか。
 高津原において、その沿革をたずねる最古唯一の文書は、『千手院観音寺過去帳』である。また俗に、高津原五軒党と称する家々に保存されている板碑もある。板碑については、既に町文化財保護委員会や史家の手によって公表されているが、今では風雪にさらされて摩滅し、歴史を祕めたまま何ひとつ語ることはない。
 巷間伝えられるところによれば、五軒党とは源兵衛、伝兵衛、伝左衛門、藤左衛門、団右衛門のことである。それぞれの家には生命井戸と呼ばれる泉水と、同型の板碑が保存されている。
 伝左衛門家に保存されている板碑(高さ一二五センチ、幅九〇センチ)には、五字の梵字と「 為比丘尼開眼日知也、乾元二癸卯閏四月廿六日」と刻まれているが、この年月はこれら草創の人々が土着した年月を示すものと大方は判断している。

伝左衛門家板碑

 この頃武士団の生活は困窮を極め、永仁五年(一二九七)には、世にいう永仁の徳政令をもって幕府は武士団の生活を救おうとしたが、その意図は全く果たされなかった。
 土地制度についてみても、守護地頭などの侵略によって、それまでの荘園制が崩壊し、守護大名が台頭するという戦国時代へ移行する混乱の最中であった。
 
 往昔相馬小太郎一族菅井対馬守主従十二人、芝山台ニ落着而適宜ニ家々ヲ造居シ、主人小太郎常恒信仰有之仏十一面観世音ヲ本尊ト為シ、密蔵院性孝寺ト号ス
 
 これは『観音寺什帳』の冒頭に記されている一文で、大正年間に火災にあって書き改められたものであるが、この相馬小太郎・菅井対馬守、両者の消息を知るための資料は全く残されていない。
 いずれにせよ相馬小太郎・菅井対馬守の両者は千葉氏一族で、戦乱の巷に主を失い、傷心やるかたなく、縁者を尋ねて千葉の地に帰農したものと思われる。津島宇左衛門新宅裏山に屋敷跡があり、仏像が発掘されたという。
 太平記によると、相馬小太郎が討死した菊池合戦は正平十四年(一三五九)七月十九日となっているが、実は建武二年(一三三五)~延元元年(一三三六)の出来事である。五軒党が土着したといわれる嘉元元年(一三〇三)から過ぎること三十余年、ここに、相馬氏一族と菅井対馬守一行一二名が、高津原村に土着したことになる。
 現在高津原は、二本松・大穴を含めて家数一〇〇戸を超え、そのうち菅澤姓六二、津島姓一六、多田・小川・篠塚・吉次・堀井などであるが、明治初年には、戸数五七のうち菅澤三七、津島八、多田五、篠塚二、小川二、吉次二、堀井一となっている。
 津島氏ももとは菅澤姓であったが、幕末の頃高津原村に疫病が流行し、現在の津島氏一族にも罹病者が続出したため、文久三年(一八六三)その一門は病気平癒を祈願して、お伊勢参りに旅立った。その道中尾張国津島へ立寄り、津島神社に参詣した。津島神社は、古くは津島牛頭天王社として多くの信者を集め、広く一般には「お天王さま」と尊称され、国土経営、産業開発、民生安定に御神徳の厚い神とされている。
 そして一行は、村の産土神である熊野神社境内に津島社を勧請し、日夜病気平癒の祈願を続けたという。その甲斐あって願いは叶えられ、以来、津島姓を名乗るようになったと言い伝えられている。