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村の支配者

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 高津原村は古くは千田荘に属し、のち矢作領として、千葉氏第五代千葉介常胤の五男国分胤道の支配するところとなり、以来天正年間に至る二百五十余年にわたってその支配は続いた。国分氏はいわゆる千葉六党の一人である。
 小田原の北条氏に属していた千葉氏一門は、天正十八年(一五九〇)、北条氏とともに滅亡し、関東一円の実権は徳川家康が掌握するところとなり、矢作領四万石は鳥居元忠の所領となった。
 鳥居元忠は家康側近の武将として勇名を馳せ、数々の戦功によって矢作領を与えられたものというが、関ケ原緒戦に伏見城で討死した。
 矢作領四万石は村数にして八四、そのうちに多古町では高津原、桧木など七カ村が含まれている。鳥居氏の後に高津原村の領主となったのは、神保氏張である。
 神保家は越中の大豪族で、織田信長と通じ、豊臣氏の時代となってからは九州に追われ、のち、徳川家康に再び召し出されて、二千石の直参旗本に遇された。禄高は以前から見れば特に多くはなかったが、将軍家家臣の中核をなした。
 旗本は将軍から土地や蔵米を与えられ、その所領を知行所といい、地頭と呼ばれてこれを支配した。江戸在住が義務づけられ、非(無)役で三千石以上を寄合、以下を小普請と称したが、神保家は小普請組であった。
 天正十九年(一五九一)神保氏張に下付された知行割は高津原については次のとおりである。
 
      御知行書立
                  下総国やはぎ領之内
 一、弐百七拾六石三斗九升三合    たかつわら郷
 
 現在の東京の神保町は、江戸時代に神保小路と呼ばれ、神保家江戸屋敷のあったところとも伝えられている。
 天正時代から明治維新まで、実に二七六年間十一代にわたってこの地域に君臨した領主は、いま大栄町引地にある宝応寺の一隅に、後世史家の問いかけに答えることもなく、苔むす石塔となってひそかなたたずまいをみせている。
 宝応寺は曹洞宗で、大須賀荘三八カ村の領主松子城主大須賀尾張守の菩提寺でもあった。境内には大須賀氏累代の墓碑や、中野城主木内壱岐守の墓碑もある。
 なお、津島宇左衛門家に残る古文書に、神保家のことについて記した次の先祖書が保存されていた。
 
     先祖書     家之紋丸ノ内二ツ引
             同替紋葛之葉
             幕之紋丸ノ内二ツ引
             葛之葉
 桓武天皇第三皇子葛原親王後胤坂東八平氏
二宮太郎朝忠九代之孫越中国守山城主神保越中守氏純養子
 一、元祖[本国越中生国能登]  [能登国守実父畠山佐衛門佐義高次男]
        神保安芸守清十郎氏張
 代々越中国之内高弐拾六万石領地は同国礪破郡守山  織田信長一統  北国守護被申渡能州勝山築  害相 申候処その後羽柴秀吉一統之  北国守護前田利家  申渡代々之所領居城共秀吉取上 申候肥後国執  候処天正十八庚寅年正月五日
  権現様御直尊書頂戴此今所持仕候
                                          右
      御直尊書写
(神保家系譜)
 氏張――氏長――氏勝――氏信――氏寿――氏秀――武周――武甫――武利――武貞――数馬――