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村のすがた

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 高津原村は古くから沃田に恵まれ、村人のくらしはかなり裕福であったと思われる。たとえば元禄十年(一六九七)の『高津原村水帳』が示すように、家数六五のうち、大部分が本百姓または高持百姓といわれるものであり、水呑(田畑屋敷をもたぬ小作人)と呼ばれるものはわずかに六名である。
 二町三反を筆頭にして一町歩以上が二一、五反から一町までが二五、五反未満が一三となっている。この時代は、百姓として一応自活できる経営規模は五反歩とされていたものである。
 寛永二十年(一六四三)に田畑永代売買禁止令が出され、続いて延宝元年(一六七三)に分地制限令が発令され、相続その他の理由による田畑分割の最底基準を、名主二十石(反別にして二町歩)、本百姓十石(同一町歩)として、それ以下の弱少経営にならないよう抑制した。そのゆえであろうか、高津原村はそれ以降明治に至るまで、田畑の移動はあっても屋敷数の増減は全くみられない。
 次の一札は菅澤源兵衛家に保存されているものであるが、高津原村領主が御用金千七百二十両を源兵衛から借り受け、それを年賦払いで毎年米二百五十俵分ずつ、何年かかっても相違なく支払いますというもので、権威がましい文面であっても明らかな借金証文である。二人の署名人は手代・側用人などと呼ばれるものである。宝暦九年(一七五九)は現在から溯ること二二〇年、「千七百二拾両」とは驚くべき金額である。いかに高津原村の農民に潜在力があったかを示すものとして注目したい。
 
一、合金千七百弐拾両   但文字金也
 右御用金先達而源兵衛差出置申候処、及相談此度致年賦請取候様相済候ニ付約束之通、四斗三合入米壱ケ年弐百五拾俵宛御返済遊被、年々右米代金銀無相違相渡、何ケ年ニ而茂右元金高相済候迄御渡被遊候所相違無之候、為其証文仍而如件
   宝暦九己卯年十月
                  橋本喜大夫 印
                  久下源五左衛門 印
                                    高津原村
                                      忠蔵殿
   (神保印)
 表書之通相違無之候也
     村高明細帳
一、高三百拾六石五斗七升   御支配所下総国香取郡高津原村
 此反別六拾町七反六畝九歩
   内
  高四拾石壱斗七升七合   元小川達太郎支配所
   内
   高七石壱斗七升七合   無反別
  下々田四町七反壱畝拾七歩
    此取米弐拾三石六斗三合   年々御定免惣納辻
  永拾弐文     草銭
  米弐升四合    御伝馬筋入用
  米八升      六尺給米
  永百文四歩    御蔵米入用
一、高弐百七拾六石三斗九升三合   神保数馬上知
 内 田高弐百四石七斗四升九合六勺
    田反別三拾五町六畝九歩
 内 下々田三反四畝弐拾七歩   用水溜池永引
    下々田九反拾四歩     山崩押砂荒地永引
    残高残反別
 高三百拾石三升壱勺七才
  此反別 五拾九町四反九畝拾弐歩
高拾五石八斗九升五合
 上田壱町四反四畝拾五歩   壱反ニ付六斗弐升五合
  此取米九石三升壱合弐勺
高三拾弐石四斗
 中田三町六反歩   壱反ニ付四斗八升八合
  取米拾七石五斗六升八合
高弐拾弐石弐斗七升六合三勺
 下田三町壱反八畝七歩   壱反ニ付四斗三合
  取米拾弐石八斗弐升四合七勺
高百三拾四石壱斗七升八合三勺
 下々田弐拾六町八反三畝拾七歩   壱反ニ付三斗四升九合
  取米九拾三石六斗五升六合三勺
高弐石七斗五升二合弐勺
 中畑五反六畝弐拾三歩   壱反ニ付壱斗三升壱合
  取米七斗三升七合壱勺   高壱石ニ付永三百五拾文願済相成申候
   永九百六拾三文三歩
高五石五合壱勺
 下畑壱町弐反八畝弐拾七歩   壱反ニ付壱斗弐合
  取米壱石三斗壱升四合七勺
   永壱〆七百五拾壱文八歩   年高壱石ニ付永三百五拾文願済ト相成申候
高五拾壱石五斗五升弐合弐勺
 下々畑拾七町七反壱畝弐拾三歩   壱反ニ付九升八勺
  取米拾六石八升七合五勺   年高壱石ニ付永三百五拾文願済相成申候
  永拾八〆四拾三文五歩
高拾弐石三斗三升六合六勺
 屋敷壱町四反壱畝六歩   壱反ニ付弐斗五升
  取米三石五斗三升
   永四〆三百拾六文五歩   永三百五拾文願済相成申候
  二給惣寄
高三百拾六石五斗七升
 此取米百七拾弐石七斗九升五合七勺   延口共惣納辻
 此取永弐拾五〆七拾八文弐歩      畑屋敷惣納永
 小物成永弐〆四百七拾文四歩
 
 この『村高明細帳』(区有文書)が示すように、高津原村の総反別は六〇町七反六畝九歩で、総高は三百十六石五斗七升、このうち天領(幕府直轄)で代官支配分が四十石一斗七升七合、旗本領神保知行分が二百七十六石三斗九升三合となっている。
 次の『年貢皆済目録』等は津島家文書の一部であるが、享保十五年の大水害による減額八石三斗四升のほかは極めて安定している。
 年貢の算定方法は、実際に作柄を調べて課税する検見法と、過去何年かの作柄を基準にして、今後何年間かを一定にする定免法との二とおりがあったが、高津原村の場合は定免法となっている。
 
     酉御成箇米永諸納物皆済目録
高七石壱斗七升七合    高津原村
 一、米壱石五斗五升   本運小物成
 一、永拾八文      高掛金
 一、米壱升弐合     御六 
 一、永壱文       中野 
 一、永拾文       荏代
 一、永弐拾文      大豆代
 一、米四升四合     口米
 一、永弐拾文      餅米代
納合 [米壱石六斗六合永六拾九文]
     右納方
  米三合        荏納
   此荏七合
  米七合        大豆納
   此大豆壱升四合
  米八合        餅米納
  米壱石五斗八升八合  江戸廻
  永六拾壱文      右運ちん
   此米五升六合
  永八文        金納
渡合 [米壱石六斗六合永六拾九文]
 表書之通去酉御成ケ米永諸納物共段々改上納小手形を以勘定仕上有之所、米永不残伊左衛門直請取ニ付被加押切皆済目録如此候、若勘定相違之儀有之候ハヽ可為反故者也
     戌四月              坂田茂右衛門
 右之通宝永弐酉御成箇米永諸納物共皆済御勘定仕上申候、若相違之儀御座候者仕直差上可申候 已上
   宝水三年丙戌(一七〇六)四月                           名主権兵衛
     戌御年貢可納割付之事
                                   下総国香取郡 高津原村
一、高四拾石壱斗七升七合
     内わけ
  七石壱斗七升七合
   無反別
  三拾三石
   此反別下々四町七反壱畝拾三歩
  此取米拾弐石壱合
   外八石三斗四升   定免米之内引
     外
 一、米八升       六尺給米
 一、米弐升四合     御伝馬宿入用
納合米拾弐石壱斗五合
 右者去申ゟ子迄五ケ年定免相極処当戌年大水損故定免米収納難成旨願出候付今見分御取箇相極条村中大小百姓出作之者迄不残立合無高下割合之来ル極月十日限急度可致皆済者也
  享保十五年戌(一七三〇)十月      小宮山杢進
                                          右村
                                           名主
                                           組頭
                                           惣百姓