熊野神社
明治初期の『神社明細帳』には、その頃の姿を次のように伝えている。
千葉県下、下総国香取郡久賀村之内字高津原
無格社
一、祭神 素盞嗚尊
伊邪那岐尊
一、由緒不詳
一、社殿間数 間口六尺奥行五尺
一、境内坪数 四百六坪
一、遥拝所 間口四軒奥行二間
一、氏子戸数 五十七戸(以下略)
しかし明治二十年に改築された現本殿は総欅銅葺きで、権現造りとでもいう様式になっている。本殿に並んで左側に上屋付きの社があるが、これは応神天皇を祭神とする白幡様である。
境内社としては拝殿右側には、石宮(高さ九二センチ)の大土祖神、次に石宮(高さ六四センチ)の疱瘡神があり、「奉造立疱瘡神宮郷中無事之攸 施主村中 享保十八癸丑(一七三三)正月十八日」と刻まれている。
これに並ぶ木造の宮(五一センチ×六六センチ)は津島社である。祭神は素盞嗚尊で、流行病に霊験があり、愛知県津島市の津島神社から分祀したものであることは前述のとおりであり、また津島の姓の起こりであるといわれていることも同様である。
隣に石柱(高さ一一七センチ)があって「香取太神宮鹿嶌太神宮息栖太神宮中臣秡壱万座成就弘化五戊申(一八四八)年二月社日 長右衛門 五兵衛 金左衛門 惣兵衛 武兵衛 太右衛門 杢左衛門 新左衛門 嘉右衛門 長左衛門 茂左衛門 三良左衛門 伝兵衛 次良左衛門 次良兵衛 甚左衛門 徳衛門 惣右衛門 源太郎 三次 五右衛門 与平」と刻まれている。
本殿左側の奥に、石宮(高さ四九センチ)の天満宮、板碑(高さ八六センチ)の天照皇大神。石柱(高さ六八センチ)に尊像が刻まれた聖徳太子。さらに鳥居の付近では、左上に木造の宮(四七×六五センチ)があって、これは子安様である。
内陣の棟札に「天明八戊申歳(一七八八)正月吉祥日願主等界施主当村善女人 大工菅澤政右衛門」と記されており、この奥に石宮が二基(高さ六八×三七センチ)あって、大きい方に「金刀比羅宮慶応四辰(一八六八)八月 津島卯左衛門 菅澤武兵衛 小河重右衛門 津島藤左衛門 菅澤兵右衛門 同平右衛門 菅澤惣兵衛 同源兵衛 同治左衛門 同太良右衛門 同長左衛門 出沼三枝源之亟」とあり、小さい方には「大正八年一月」とだけ刻まれている。
鳥居右側に庚申塔(高さ八七センチ)があり、三猿を足下にした金剛像があって、「奉侍庚申村中惣願主成就所元禄十七年甲申(一七〇四)三月廿一日」と刻まれている。
その他の奉献物の主なものとしては、本殿前に石造蝋燭立(五八×二三×一七センチ)があって「熊野大神 燈台 白幡大神 寄附菅澤杢左衛門」と刻まれ、拝殿前の一対の石磴籠(高さ一〇六センチ)には、「奉献石燈籠壱基施主菅澤庄右衛門 宇左衛門 天下泰平五穀成就郷内安全氏子繁昌熊野三社大権現官御宝前天明四年甲辰(一七八四)七月吉日」とあり、並ぶ一基には神名が「白幡大明神宮御宝前」とある。
石造鳥居は大正十一年二月に建てられたもので、その前にある石造手洗い(七二×三八×三八センチ)には「奉納弘化二乙巳年(一八四五)三月吉日菅澤宇左衛門 同苗杢左衛門」と刻まれている。