足尾山社 字大穴一三三三番にある。村の二本松集落から大穴の坂と呼ばれる難所を下り、また昇り切った畑の中で、杉木立に囲まれている。
昭和二十七年に、行政区画とは別に、旧高津原村内の一集落であった大穴が独立してからは、大穴集落の鎮守として崇拝され、八月十五日の祭りには演芸会なども催されている。こうしたことに伴って、拝殿の奥の石宮も建物の中に納められた。
本殿には、石宮が二基(高さ七三×四八センチ)と石塔(高さ四四センチ)一基に小碑が二〇個ほどあって、大きい石宮には「天保五甲午(一八三四)十一月吉日願主高津原村中菅澤杢左衛門 同治左衛門 井戸山村前」小さい方には「足尾山切道し吉左衛門」石塔には「足尾山大正十一年二月建之遠藤まつ 同栄助」と刻まれている。
この社は常陸三山(加波山・筑波山・足尾山)のうち、茨城県新治郡八郷町の足尾山に鎮座し、国常立命を祭神とする社が本社であり、神紋が天狗羽うちわで、足の病いに霊験があるという。足形を印した神符を頒布することで有名である。ここに分祀された経緯については不明である。
記念碑(高さ五六センチ) 字後原七三九番にある。疵が多く刻字は明らかではないが、西国三十三カ所参拝記念碑と思われる「 礼閣塔天保三辰年(一八三二)八月吉日次浦村平右衛門 平兵衛 藤左衛門 兵衛 五兵衛 金左衛門 甚左衛門 藤左衛門 利吉」などが読み取れる。
馬頭観世音(高さ六〇センチ) 字後原七二四番にあり、表に馬頭観世音像があって「寛政元己酉年(一七八九)四月吉日願主惣村中」とある。この地は伯楽場であったといわれることから、癒えることのできなかった斃馬の供養に建てたものであろう。
稲荷様(木造七九×一二六センチ) 字稲荷山五六一番地にある。勧請年代などは不明である。
道祖神 村内三カ所に祀られていて、字新堀七四九番には石宮二基(高さ五五×四四センチ)と小碑が七基ほどあり、その大きい石宮には「昭和六年三月吉日区中建」小さい石宮には「大正十二年十一月」とだけ刻まれている。
字稲葉九一四番の二には石宮一基(高さ六〇センチ)と小碑七基に、多数の小石が供えられている。この石宮には「正徳四午年(一七一四)三月吉日施主四郎左衛門」と刻まれている。
字内野一〇一二番には石碑(高さ一二センチ)が一基に神名だけ刻まれた道祖神がある。この祠の多くは街道沿いに祀られていることからみて、字新堀と字稲葉を結ぶ通りが村の主要道であったと思われる。
字内野の道祖神だけが街道から離れた丘陵の頂にあるが、語り伝えによると、ここには方形の土壇があって、御所台の殿様が観月の宴を張った所であるという。丘陵突端で東に三方が開けて観月の場にふさわしい地であるが、道祖神との結び付きについては不明である。
愛宕様(木造四五×七三センチ) 字愛宕山九七六番の一にある。亜鉛葺きの雨覆は昭和十六年に再建した旨記されている。祭神は稚産日命で、防火の神といわれているが、勧請の時代などについては不明である。
浅間様(木造七九×一三三センチ) 字大谷二八六番にある。祭神の木花咲耶姫命は富士山頂に祀られている神で、富士講の本尊でもある。この社も勧請のいわれ、時代などは不明である。
八坂様 字向台三五八番にある。石宮(高さ四八センチ)が一基と小碑が十五、六個ある。小碑には「御天王牛頭天王」と祭神名を刻んだものもあり、石宮には「弘化四年巳(一八四七)十 吉日当村 伴作」と刻まれている。
庚申塔 字向台三九三番と字前野(大字大高)二番の五と字堂本一二〇八番の三カ所にある。
向台の石塔(高さ六四センチ)には梵字に「青面金剛 善男女人 右いゝざゝ村江戸道 左たこ村はま道 寛政十二庚申歳(一八〇〇)立之高津原村」の刻字が見られる。
前野の石塔(高さ九〇センチ)には、鬼を足下にした神像と、「右ハたこ中村八日市場 左ハ高津原いど山大 道 文政二己卯(一八一九)三月吉日」と刻まれている。
字堂本一二〇八番にあるものは、村域の最北端で十余三との境際であり、一般的には、十余三地域に建っていると思われているようで、宝永四年(一七〇七)の建立である。
この祠は、道祖神と併立されることが多く、病魔退散の尊である。