大門は旧久賀村のほぼ中央部に位置し、西北部台地の開墾地と、栗山川に連なる、水田と畑作の両耕の地域である。その水田は二筋の細谷津にわかれており、住居は高低起伏の激しい凹地のところに、水田に面して点在している。水田耕作の便宜性が基本となってこれらの住居が建てられたものであろう。
明治以降、旧幕府用地が解放されたこともあり、畑作物の普及も伴ってにわかに開墾地への転出と分家が増加し、「開墾」と称する新しい集合体が構成されて、「本村」と「開墾」という二重構造の村として拡大した。
大門地域は、周辺の村々とともに古代より朝廷または幕府所管の馬牧用地であり、村人もまた馬牧との深い関わり合いをもって生活したであろうことは、当然のことでもあった。間見穴・木戸谷などの字名は、桧木村のホッコメなどとともに、馬牧に関わるものである。
大門の地名については、かつて西古内村に名刹があって、その参道に大門(だいもん)が建っていたことから大門(だいもん)と呼び、後に「千田庄大門(おおかど)」と呼んで村名にしたと言い伝えられている。字名に大門谷・上人塚などがある。