ビューア該当ページ

村の支配者

593 ~ 597 / 1069ページ
 天正末の政変によって北条氏が滅亡し、房総の諸城相ついで落城。これに伴って、千葉氏とその家臣団の多くは、旧領千田庄の各村々へ離散、帰農していることは、他村の例と同様である。小川伊右衛門家文書によると、大門村には、五木田三郎右衛門・平山平右衛門らその一族が帰農したと記録されている。
 千葉氏滅亡の後、大門村が属する矢作領は、徳川家の武将鳥居元忠の領地となり、慶長四年(一五九九)の検地帳には大門村の石高二百二十七石と記されている。この検地は史上「矢作縄」と称し、納める年貢は従来の石高より一挙に二倍半という、農民にとってはこの上ない苛酷なものであったが、一方幕府にとっては戦乱に明け暮れるさなか、財政事情は窮迫していたであろうし、政権を奪取したとはいえ政情の不安定な状況下にあり、反幕勢力の台頭を抑圧しようとする意図もうかがい知れるものである。
 さらに鳥居氏は、矢作領に封ぜられると、岩ヶ崎(佐原市)に居城を移し、直ちに築城にとりかかっているが、つまりは検地増石という増税によって、農民に負担させる結果になっている。大門村名主六郎左衛門の書き残した記録によると、大門村の石盛は次のようである。
 
  上田 盛十五 上畑 盛八ツ壱反ニ付永百二十文
  中田 〃十二 中畑 〃六ツ(虫食不明)
  下田 〃十  下畑 〃五ツ〃永八十文
  屋敷 〃十  壱反ニ付永百二十五文
  矢作縄以前の石盛
  上田 九ツ  上畑 八ツ  屋敷 八ツ
  中田 八ツ  中畑 四ツ半
  下田 六ツ半 下畑 四ツ
 
 当時の実収高は不明であるが、右の両資料を比較すると明らかなように、課税見積高が上田で九斗から一挙に一石五斗へと増石され、かなり苛酷な増石であったことがわかる。
 鳥居氏はその後奥州磐城に六万石を加増されて転封したため、岩ヶ崎城は廃城となり、矢作領一帯は徳川の家臣団の知行地として分割された。そして大門村は、大番・松平安房守、小普請・瀬名源五郎両旗本の相給となった。
 松平・瀬名両旗本はともに、大門村に百十三石五斗、井戸山村に三十三石、森戸村に二百十三石一斗六升五合三勺をもっている。それ以後二百六十有余年、明治維新に至るまで世襲によって大門村は両氏の支配下に置かれていた。
 
       村高反別取調明細書上帳
                                   下総国香取郡大門村
  高弐百弐拾七石
   反別合弐拾四町七反五畝拾六歩
           家数合弐拾五軒
     内訳
                                      松平春之烝知行所
  一、高百拾三石五斗
  高五石五斗五升七合五勺
  一、上田合三反七畝壱分五厘
  高弐拾弐石弐斗三升四合弐勺九才
  一、中田合壱町七反壱畝壱分
  高六拾五石九斗七升
  一、下田合六町五反九畝廿壱歩
  反別
   合八町六反七畝弐拾三歩五厘
   此高合
   九拾三石七斗六升壱合五勺三才
  上中下取米
  一、合米五拾弐石九斗七升   延米口米夫米共納辻
    内米壱石七斗五升六合   荒地永引
   残納米
    米五拾壱石 弐升九合弐勺
   高弐斗弐升四合
  一、上畑合弐畝弐拾四歩   壱反ニ付永百弐拾文取
    此取永三拾三文六歩
   高壱石四斗八升九合
  一、中畑合弐反四畝四歩五厘   壱反ニ付永   
   此取永弐百四拾壱文三歩六厘
   高拾六石四斗壱升壱合六勺六才
  一、下畑合三町弐反八畝七歩   壱反ニ付永八拾文取
   此取永弐貫六百弐拾五文八分四厘
  上中下三口畑
  一、合三町五反四畝弐拾壱分五厘
  屋敷反別
   高壱石六斗壱升弐合壱勺   壱反ニ付永百弐拾文取
   合壱反六畝四歩
   此取永弐百壱文六分三厘
  合三町七反弐拾五歩五厘
   合此取永
    合弐貫九百七分五厘
  畑高屋敷共
   合拾九石七斗三升七合七勺五才
   内永 三百六拾弐文八分 畑荒地永引
  残永納
   合永弐貫五百四拾四文七分
  納合米五拾壱石七斗九升五合弐勺
   永弐貫五百四拾四文壱分   延米口米夫米共納辻
 
 これは松平安房守知行所分の『大門村村高反別取調明細書上帳』であるが、瀬名氏知行所分もこれと全く同一に記録されている。村高二百二十七石を折半して相給となっているが、家数は松平一四、瀬名四となっている。家数は知行所別に分割されてはいるが、実生活において各家々は年貢上納の連帯責任を負うほかは相互にさほどの関わり合いをもつこともなく、一人の名主によって諸事の差配を受けている。瀬名氏知行所名主三郎右衛門、松平氏知行所名主六郎左衛門となっているが、現存する『区有文書』を見る限り、すべて六郎左衛門が村内をとりしきっていたようである。