十余三から染井台に至る前野原と称する広大な地域は、古くから多古・染井・飯笹・井戸山・御所台・西古内・大門・桧木・前林・沢・出沼・高津原の各村とこれに隣接する村々の秣刈場として管理を許されていたが、そこはただ草を刈り飼料堆肥を収穫するばかりでなく、その広域な林野は生活物資の貴重な供給源で、燃料・萱・栗・きのこ・山らっきょう・山菜など、資源は豊富であったから、その管理あるいは権利をめぐって村と村の争いもしばしば起こった。
大門村は井戸山村とともに松平、瀬名の同知行所内にあったため、何かと引き合いに出され、村役人が困惑した事情が次のように記録されている。
乍恐以始末書奉申上候
瀬名源五郎知行所下総国香取郡大門村名主三郎右衛門外壱人奉申上候、今般同郡井戸山村一件為引合与被召出当時御吟味中之処、寛文之度書類取調可差出旨被仰渡奉畏取調候得共、年来相立候儀ニ而井戸山村与多古村より取置候手形弐通之外村々より差出候書類一切相見不申(中略)私共引合ニ相成何とも難渋至極仕候、何卒以御是悲已来当村迷惑無之候様、両村共先規之通り被仰付被成下置候ハヽ難有仕合奉存候 以上
瀬名源五郎知行所
下総国香取郡大門村
名主三郎右衛門
差添人
同六郎左衛門
天保十二丑年六月七日
御奉行所様
右之通り始末書差上候処御吟味中ニ織田五郎作様御利解ニ而高津原村前野之儀者大門村進退之場所与御申被聞尚又立戻リ帰村被仰付候、則大門村も相心得取斗可致被申渡候也
このような訴訟ごとはすべて江戸表において行われ、呼び出された村役人は旅宿に逗留して吟味を受け、いつ下されるともわからぬ裁許を待った。宿賃もかさみ、留守中の村々のことも気掛りで全く困惑なことではあったが、秣苅場の権利を守ることは村の存亡にもかかわる問題である。結局この一件は、後記資料に示すように明暦年中に取り決めたとおりの御裁許があって、高津原村・大門村・井戸山村ともに異議なく納得することになったのである。
こうした結末を見ることになった裏面には、この事件の最中、江戸に滞在していた名主六郎左衛門は養父の病状が悪化したとの早飛脚を受け、「養父の存命中面会の上何分の手当を致し度く存じ候えば、何卒御慈悲を以て帰村仰付下され度く」と嘆願書を差出すなどのこともあったのである。
今日いっそうの開発がすすみ、肥沃な緑土となった大門地域の土にも、幾つかの苦難の秘話が歴史とともに埋もれていた。
(前文略)右出入御吟味中之処今般論所秣場之儀、相手高津原村地先ニ而右秣場入会之儀者、明暦度寛文度御裁許御絵図面御墨筋之内ニ而、大門村其外入会来候村々、如前々入会与之御文面有之、尤訴訟方井戸山村ニ限リ右場所差勝可申筋ニ無之段御吟味之上相弁、以来度々御裁許御証文相守候筈、一同無申分熟談内済仕帰候
明暦御証文之写
下総国大門村与同国高津原村論之事
一、右双方之絵図面並以申口遂穿鑿候処、高津原村より者桧木村染井村御所台村寺作村多古村之もの共、彼野高津原村之野ニ無紛与申手形出之候、大門村より古内村次浦村出沼村之もの共手形出之候得共、論事之野ニ加満以無之、殊ニ普請之時分人足出し候との文言ニ而、地内者何方共無之候得者証拠難成候間、大穴谷より大門村野馬除土手之間より高津原村前野迄、高津原村大門村其外此跡より入来候村々如前々入相ニ申付候、双方共有来候田畑之外自今以後新田新畑並ニ新林等一切仕間敷候、大穴谷向之儀者大門村との入会与申候得共、廿壱ケ年以前草苅道とめら連候得とも其時分不申出儀ニ候得者大門村之者申分不謂事ニ候間、以来一切入申間敷候、為其双方江如此証文下置もの也
明暦二申六月七日
設 勘次
雨 次郎左
村 次左
渡 半右
北 安房
明治に至って大門村は急速に変貌した。
明治政府は、王政復古の大号令のもとに朝令暮改のそしりを受けながらも、次々に改革を行い、廃藩置県によって宮谷県から新治県、そして千葉県へとゆれ動く中で、大門の村内にも新しい胎動があった。
特に前野原・渡戸台の解放は、今日の大門という集落構成の要因となった。
政府はいち早く旧幕府用地を解放、明治四年の十余三地域に始まって順次馬牧用地が解放されていった。
高津原村は先駆して前野原の解放運動を起こし、大門村もこれに呼応したのである。後に記す『村落取調書』や『産物取調書』に見られるように、この頃は農産物の生産も多様化し、したがって農民の畑地への欲求はますます強くなったが、同時にこの解放によって、明治二十年を過ぎる頃には村からの転出や分家が目立っている。
掲載した記録は、山田六郎左衛門家文書の中から拾い上げたものであるが、当時の村の事情を知るうえにおいて貴重なものである。
秣場原野取調書 第五大区小七区
下総国香取郡大門村
字前野
秣場壱ケ所 凡反別拾三町三反三畝拾歩 但シ 東西五百間 南北八百間
右之通両村入会秣場野取調奉書上候事 以上
明治七年戌二月
大門村
農惣代 小嶋治郎左衛門
同 平山平右衛門
副長 菅澤太郎右衛門
戸長 山田六郎左衛門
工商取調書
下総国香取郡
第五大区小七区
大門村
一、農間 質 一
一、同 酒造 一
一、同 醤油造 一
一、同農間小売酒一
一、同 紙漉 一
一、同 小間物 一
一、同 工 一
一、船 無御座候
一、水車 無御座候
一、人力車 無御座候
右之外相洩(もれ)候工商無御座候 以上
右之通工商取調奉差上候処相違無御座候 以上
右村
戸長 山田六郎左衛門
明治五壬申年五月 日
新治県 御役所様
大門村地理取調書
一、村落位置 高低地
一、県庁土浦ヲ去ル事 凡拾三里拾八町
一、村方境界 東西九町四十間 南北七町
但シ 南ハ高津原村ニ接シ北ハ桧木村ニ接シ東ハ西古内村次浦村ニ接シ西ハ原野
村落家居東方江向三町 間南方江向四町
但シ戸数廿八戸
一、秣場弐ケ所
字前野周囲七拾四町 [縦 廿町 大門 横 三町四拾間 高津原]入会
字渡戸台周囲六町三拾六間 [縦 壱町四拾八間 大門 横 壱町三拾間 古内]入会
村落多古村より佐原道筋ニ位シ四隣 地之通輸、馬ニテ通行之事、但シ道幅弐間馬車不通
一、地先掃除場 拾六町四拾間
一、馬拾四疋
一、鶏百羽
一、原野或ハ水沢ノ如キ地ニテ未開場無之候
一、用水何川ノ分流ニシテ現今潤沢スル事無之候
一、槇木一万本 金六円六拾銭
一、炭 五百俵 金弐拾七円
一、萱 五千把 金三円三十銭
一、鶏卵弐百粒 金壱円
一、清酒造高三拾石 金弐百三拾四円
一、醤油造高三拾石 金百四拾壱円弐銭
右之通取調奉書上候処相違無御座候 以上
明治八年三月
副戸長 菅澤太郎右衛門
戸長 山田六郎左衛門
新治県 権令中山信安殿
産物取調書上
第五大区小七区
香取郡大門村
一、米百八拾七石
一、内上米拾弐石 金高七十五円
一、 中米八十石 金四百五十六円
一、 下米九十六石 金五百弐拾円五拾銭
一、麦弐拾弐石
内上麦九石 金三拾六円
下麦拾三石 金四拾三円二銭
一、大豆拾八石
中大豆七石 金弐拾八円
下大豆拾壱石 金三拾三円
一、小麦拾六石
中小麦六石 金拾五円
下小麦拾九石 金拾弐円五拾銭
一、小豆弐石 金拾円
一、粟 拾壱石 金拾弐円拾壱銭
一、菜種五石 金拾六円六拾六銭
一、胡麻四斗 金壱円三十三銭
民費取調書上
第拾五大区四小区
香取郡大門村
一、掲示場修繕費 金壱円五十銭
一、道路堤防橋梁修繕費 金五円弐拾五銭
一、郵便税並脚夫賃
一、常使夫並臨時雇費 金拾弐円弐拾五銭
一、行倒人取扱復籍人宿村送費
一、癈疾窮民救助費
一、国幣社並県社郷村社営繕費
一、祭典並遥拝式費 金七拾五銭
一、県社郷村社神官給料
一、貢米金一切費 金五円五拾銭
一、里程調費 金五拾銭
一、戸籍調費 金壱円弐拾五銭
一、学校費
一、貸費生徒費
一、道路掃除費 金五円弐拾五銭
一、街燈費
一、時鐘費
一、用悪水道費 金五円
一、暴漲水道費
一、井堰守給料
一、消防入費
一、警保諸費
一、育児ニ関スル諸費一切費
一、地租改正一切費 金五拾円八拾銭
一、傍尓 建費 金壱円七十銭
一、布告並達頼入費[但筆墨代紙ローソク] 金四円五十銭
総計金 九十四円三拾銭
右ハ明治九年一月一日ヨリ同十二月三十一日迄村内民費取調候処書面通リ相違無御座候
議定書 大門村
今般村方相談之上議定左ニ候
一、博奕賭之勝負ハ決而致間敷、若万一風聞有之節者村方一同ノ投票ニシテ、其撰ニ当リタルモノ道路普請十五町乃至常使壱ケ年、村議定違背料シテ相勤メ可申事
但シ、組合親戚ノモノ引受ケノ事
一、道路普請之義者前日触置候間早朝より精々可致事
但シ正当ノ事故有之モノハ後日其場普請致スカ、又ハ一日料廿銭ツヽ無相違差出候共、両限ノ内可致事
一、非常連其他突会抔ト唱ヘ候儀者春秋二期限之事
一、諸祝之義酒三献野菜ニテ手軽ニ済事
一、諸役義ハ、其日午後四時無相違上納可致、若万一延日候モノハ残ル入立費差出可申事
一、村内野菜其他盗難之者有之節者村内議定通リ投撰、若万一其撰ニ当リタルモノハ組合親類引受ニテ常使壱ケ年相勤可申事
右ノケ条無相違相守可申、若万一議定背キ候モノハ組合親類引受ニテ聊村議定相背申間敷、依而一同連印議定書仍如件
明治十五年六月 日 菅澤利助 印
菅澤太兵衛 印
(以下二十二人氏名省略)