町史資料『寺院明細帳』によると、本尊は大日如来(境内堂の本尊は薬師如来)で、その由緒は不詳であるとなっているが、次に、当寺に伝わる『木食上人畧縁起』全文を掲載し、その概要をたずねてみることにする。
木食上人畧縁起
抑も当山境内の後丘鬱蒼たる森林中、古色高く天崖に聳え魏然たる宝塔は、是木食俊弁上人が禅定に入り法眼とこしへに閉し給へる石龕なり、而して其遺訓は親しく信者個々の心裡に留り日夕に感応親炙し菩薩権化の典型として崇拝せらる。
蓋し上人は寛文七年十月北総香取郡神崎町字小松に生る、俗姓は大野氏清左衛門の二男なり、幼名を俊二郎と称す。八歳にして仏門に志ざし同郡本大須賀村字吉岡真言宗智山派の巨刹大慈恩寺に入り、法印空範師に師事す。時に天和元年上人十五歳にして空範により薙髪授戒して僧名俊弁と授けらる。常に祐天上人の修力を追慕し自ら法験と号す。十八歳にして修業練磨のため恩師の命により、北総の分水領当時人跡稀れにして塵外の境、松籟に琴瑟の情調をきき麓に滾々たる谿流をきく久賀村大門貉穴の奥重ケ谷に草庵を結び、専ら世縁を絶ち修行一念千日に及ぶと言ふ。
二十一歳笈を京都の智山に負ひとどまること五年、更に大和の初瀬に遊び修学二年、顕密の二教を修むること前後七年、それより紀州の高野に登り、名匠碩徳につき其奥義を探り、住すること荏苒として年あり。
元禄十二年三十三歳、恩師の訃を受けて小松にかへり、師の房に住し法要極めて殷懃なり、居ること一年、由来上人は大門の山川秀美仙境の地たるを追懐し、修学練磨の間にも意をこの地にかたむけ、漂然として往来すること既に数回、元禄十三年三十四歳大門に一宇を建立し、小松の寺号を襲ひて成就院と号す。本尊薬師如来を奉安し上人は第一世の開基なり。惜哉明治三十九年、上人建設にかかわる堂塔伽藍什宝伝記悉く烏有に帰す。寔に千載の恨事となす所なり。
上人は三人の法資を掬育す。曰く宥智、曰く宥深、曰く但観、常に薫陶怠らず堅固金剛の道心と高邁なる学識とは相ならびて其名八宏に聞ゆ。而して諸山より上人を招聘すること日も亦足らず、遂に志を決して法弟専誉に後事をたくし、近江国金亀山長命寺の後董を襲ふ。同寺は畏くも天智天皇の勅願所にして有数の巨刹なり。京都に近くして法資を修学せしむる便ある故爰に住すること数年、高弟宥智をして後董を任ね、宥深、但観を倶し大門の故山に隠棲す。而して成就院の法統は宥深之をつぎ、但観をして同郡佐原町勝徳寺を襲がしむ。時に享保三年上人五十三歳なり。
五穀を断ち木の実を食となし、諸国行脚の僧となり身を雲水に任せ、霊山霊刹に参籠し回国すること八年、享保十年十二月再び大門に帰錫し、貉穴の地を卜して江州竹生島弁財天を勧請し諸国参籠の記念とす。又小松の生家にも同じく祭祀して累代の氏神となすといふ。翌十一年錫を東山北陸両道に発し、神明仏陀を拝礼すること二ケ年、同じく十三年六月を以て満願記念の豊碑を成就院境内の後丘にたつ、碑面尚現存す。
噫上人一世求道の偉業を会得し、神変加持の修力を以て衆生を攝し、色心不二の妙趣と真如実相の真理を垂示せるが如きは、実に修道者の範学侶の箴と言はざるを得んや。而して上人の高徳に帰依するもの遠近嘱々として景仰せざるものなし。
元文二年上人齢七十にみち、薪水を断ち当時の後丘に石龕を造り之れに入る。誓って曰く「我仏果を得ば必ず白鷺群集すべし」又曰く「我を念ずる輩は安産子育の願を満し、悪疫流行の厄を払ふ」と、自ら石龕の中に入り、勇猛なる誦経の梵音は貉穴の谿谷に答へて、漏聞すること数百日に及ぶと言ふ果せる哉星霜三歳の後、何地よりか白鷺群をなして大門の地に来る。棲息すること一ケ年去って影を認めずと伝ふ。
而して現存せる宝塔は、上人留身石龕の上に遺弟二人相計り、宝暦七年十一月二十一日十七回供養のために下層を築き、上層五輪塔は法孫武州浦和玉蔵院住持果照及び当成就院住職廓周等、天明六年十月二十一日上人の五十回忌報恩謝徳のために増築せるものなり。
惟ふに上人示寂の雲にかくれ給ひしより星霜一百九十余年、しかも其遺訓は深く信者の脳裏に注入して今尚諸氏の眼前に髣髴とし大悲の本誓に浴するもの挙げて数ふべからず。
爰に縁起を述べて、上人一世の偉業を世上に知らしめんと欲する所以なり。
大正十五年五月
久賀村大門
成就院
これによると、元禄十三年(一七〇〇)に一寺を建てて成就院と号し、木食上人がその第一世開基となった旨が記されているが、これより三六年前の寛文三年(一六六三)に書かれた『下総国香取郡千田庄大門村新畑帳』と『下総国香取郡大門村田帳』には、既に成就院の寺名と、その所有した田畑九筆の畝歩までが記されている。
これらのことから、畧縁起にある成就院以前に一房があって、その寺房を上人が中興して住持となり、後世の隆盛をもたらしたものではないか、とする説もある。