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五輪塔とその周辺

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 成就院後丘の入定塚上に建ち、下層礎石部分を含めると、地上三メートル余はある。「天明六丙午年(一七八六)十月二十一日建立」の文字が刻まれているが、これは、前記『畧縁起』にもあるとおり、果照・廓周等ゆかりの者達が、上人の五十回忌にちなんで建てたものである。偉大な上人の業績にふさわしく堂々としたもので、周囲の環境と相まって、われわれの目を見張らさせるものがある。

木食上人入定塚

 なお、この五輪塔後方は一段と高い山林になっているが、その中腹で歴代住職の墓石が並ぶ中に、四〇センチほどの板碑が見られる。梵字とともに「権大僧都朝誉」と刻まれ、「天正十一年(一五八三)正月十九日敬白」の文字が読み取れるが、年代的にも貴重なものと思われるので、ここに付記する。
 また同所に、目通り二メートル余の梛の木が茂っているが、村人はこれを霊木と崇め「ナンジャモンジャの木」と呼んでいる。その樹皮を剥いで産褥に敷くと安産の加護があり、薪の中に加えて粥を炊き、それを食べると母乳に不自由することがない、と言い伝えられている。
 同寺本堂わきで、入定塚への登り口左側に「仏像記念碑」と表題のある二・三メートルほどの石碑があり、そこには、次のように刻まれている。
 
                                   真言宗智山派香取宗務所長
                                        僧正 半田照如 題額
 虔テ縁起ヲ按スルニ 関東唯一ノ古刹北総千田之荘寺作土橋山東禅寺ハ 我国仏教界ノ泰斗比叡山延暦寺五世ノ座主智証大師ノ開基トシテ有名ノ蘭若 東国ノ豪族千葉氏一門ノ菩提所ニシテ 嘗テハ当山成就院ノ本山ナリ 而ルニ時ノ流レハ明治維新廃仏毀釈ノ激浪ニ同寺保存ノ資源ヲ失ヘ 流石ニ荘厳ヲ究メタル堂宇伽藍ヲ首メトシ 一切ヲ挙ケテ頽廃腐朽ノ止ムナキニ至レリ 嗚呼亦何ヲカ言ハンヤ 不肖僣カニ惟フ 宇宙ノ万象真理ノ創見主衆生済度ノ教主タル大聖釈尊カ 社会教化ノ宝鍵タル瑜祇灋身ノ眼前ニ湮滅セントスルヲ見ツツ 豈夫誰カ袖手傍観スルニ忍ヒンヤ 依テ老友山田豊吉翁ニ計リ 他ノ老友ノ協賛ヲ得 断然諸尊勧請ヲ企テ 青野八重三老ニ依頼シ 東禅寺兼務住職遠藤宥喜師 世話人三ノ宮政吉 並木長太郎両氏及ヒ旧檀徒ノ快諾ヲ得 仏師同伴同寺旧趾乃チ発墟ノ中ヨリ 智証大師ノ御作不動明王 同大師自作自像 弘法大師ノ御作観音菩薩 真栄法印ノ寄進阿彌陀如来等々破躰ヲ蒐聚シ 前記諸彦ヨリ譲渡ヲ得タリ 就中不動明王ハ 当山開基木食上人が修業途上ノ念持仏トシテ云ヒ伝ヘラレ当山トハ最モ深キ因縁ヲ有セリ 故ニ裏面鐫刻ノ各位後援ノ下ニ当院ニ勧請シ整備奉安スルモノナリ 希クハ大方ノ善男善女 自他共ニ人格ノ修養処世ノ箴トシテ念々合掌シ賜ハラハ 願主一同本懐ニ堪ヘザル所ナリ
   昭和十五年十月二十一日
                                        願主一同 敬白
                                          志堂五木田翁謹書
 
 この碑文は、名刹東禅(漸)寺が、明治維新における廃仏毀釈によって衰退の一途を辿り、寺格を維持できなくなったとき、諸尊像とともに、木食上人と因縁の深い不動明王などを、かつては、その末寺であった成就院に移遷することになった経緯を記したものである。