桧木区は現在戸数二二戸、人数一一一人の小区である。二二戸を数えるようになったのは、昭和二十年以降のことで、それまでは古来より一一戸~一七戸をもって一村をなしていた。そのうち、小川姓を名乗るもの九戸、大森・久蔵・平山が各一戸で、そのほとんどが小川姓によって占められている。
天正十八年(一五九〇年)矢作城や松子城の廃城に伴い、多くの武士達が各地に離散して帰農したように、桧木にもまた千葉氏ゆかりの人々が数多く住んだことが、小川家文書や大森家文書によって知ることができる。またそれらの文書から、江戸時代の村の状況についてはおおむね推測することができる。
しかし、それ以前の古代の様子については、それを証し立てるものは何ひとつ発見されていない。古代に馬牧があったという説については、桧木周辺の字名と地形を調査すると、わずかにその説を裏づけるものがあるように思われる。
桧木もまた、古くは原郷に含まれ、のち千田ノ荘に属したものであるが、『延喜式』に記述されている高津馬牧についての是否は別としても、高津原区の項に記したように、あるいは古代、馬牧が存在したことによって、馬牧を管理する人達の生活があったのかもしれない。
たとえば、桧木材は古くから、神社などの建築に用いられる格調高い銘木として尊ばれることなどから、その村名にも一段と高い格式をにおわせている。
律令制においては四等官の役人をして、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼び、国の役人を卿輔丞録(かみすけじょうさかん)、地方の役人を守介掾目(かみすけじょうさかん)と区分しているが、また、村に残る屋号にも「かみ」「じょう」などが見られ、時は移り人は変ったとしても、これらは身分のある人達の屋敷跡ではなかったろうか。あるいはまた、「城(じょう)ノ内」「下ノ馬場」などの呼名から、城砦が存在し有力武士の居館の跡ではなかったかとする説もある。「城ノ家」の裏山は、一見して城砦の形態をいまになおとどめ、同家の祖先は、幕府直轄地であった頃には名主役を勤めている。
天正十八年(一五九〇年)関東最大を誇る小田原城もついに落城。房総の諸将もまた、安房の里見氏を除くほとんどが北条氏と運命をともにし、ここにさしも四〇〇年に及ぶ千葉氏六党の一として君臨した国分氏と大須賀氏およびその家臣は敗残の士となって離散した。
なお、国分氏は常陸国に逃れ、後に水戸家の客分として遇せられたが、その子孫は旧領巡見のためと称して旧臣の帰農先を訪れている。
小田原落城の後は徳川家康が関東に入り、ここで房総の諸城はことごとく廃城となるか、または徳川麾下の将によって支配されることになり、矢作領四万石は、家康側近の武将として勇名を馳せた鳥居元忠の領するところとなった。
しかし桧木は鳥居氏の支配を受けることなく、天領地として残り、間もなく高津原とともに旗本神保安芸守氏張の知行地となった。
天正十九年(一五九一)神保安芸守氏張は家康から、すべて二千石の知行割を受けたが、桧木については、次のようになっている。
御知行書立
一、六拾六石四斗壱升三勺二才 下総国やはぎ領之内ひの木之内
また、弘化二年(一八四五)『関八州取締役控帳』によると、次のように記録されている。
高七拾六石一斗六升
家数十一軒
内
高六拾六石四斗一升 神保数馬知行
高九石七斗五升 高木清左衛門支配
家数一軒