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台地への進出

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 次に示す天明四年の『新畑開発証文之事』に記されている新畑の開墾は、畑数一九枚でそのうち六畝が役畑、五畝歩宛一七枚が各個人の割付けとなっている。合わせて九反一畝の増反である。しかしこれは一挙に開墾されたものではなく、長い年月にわたって、ひそかに役人の目を覆い逃れながら徐々に開墾したもののようである。
 このような農民の行為は古くから各村々にもあったが、享保十六年(一七三一)には代官による新畑検地が行われ、これらの新畑は林畑として、年貢上納の義務を負わされることになった。
 新畑は「鍬下三年」といって、一定期間年貢は免除されていたが、いずれにしてもこのような台地への進出は、農民が生きるための手段としてとった、命がけの開発行為であった。
 また、矢作牧領内の秣刈場は永年にわたって村々の奪い合いとなり、時代的には前後するが、後述の「農業差障り」の一件もまた次浦村との間に起こった秣刈場をめぐる争いである。この件は結局出沼村名主の仲立ちによって各村々名主の預りとなり、次浦村名主の示談書一札によって落着したもののようである。
 なお、『新畑開発証文』は、日本の三大飢饉(享保・天明・天保)のひとつといわれる天明の大飢饉の状況について詳記し、そのことを新畑開発の理由にしている。
 こうした災害に遭うことによって、次第に米から雑穀収穫へと農民の耕作意識も変容し、台地畑作への進出意欲は、一段とめざましいものとなった。いずれにしてもこの新畑開墾は時宜を得た開発行為であったのではなかろうか。
 なお、名主伊右衛門は代々この職を世襲し、初代は伊織といって馬術に優れ、寛永年間にその技は上覧に及ぶほどであったと伝えられている。後代の伊右衛門は江戸後期における佐原の俳人本城兎郷(号桃斉)の門に入り、のち二世桃斉としてその名跡を継いでいる。ちなみに、本城桃斉は千葉氏大須賀四郎胤信の後裔である。
 ここに、新畑開発と、それ以前のことではあるが、秣刈場の出入りについてを、続いて紹介し、当時を知るよすがとされることを願うものである。
 
     新畑開発証文事
一、天明三癸卯年初春ヨリ至リ而其年中日々ニ寒サ雨天打続キ、其上信濃国浅間山焼ぬけ上野之国ニ大石小石降ル事恐敷、又泥水涌出火水之戦ニ而人馬死候事何万人共数不知、此辺佐原惣而利根川筋死人流レ来事数しれず、関八洲並ニ陸奥出羽信濃三ケ国ニ砂降リ候事夥敷、此辺ハ其年七月六日七日八日三日砂降リ申候、尤前々一日者少シ降り、八日一日一向昼夜之分チ無く真闇に被成昼毛行燈附居申候、其砂之当リ且又前々ヨリ寒サ風雨打続キ六月之大暑之時分ニモ布子合セ抔着シ居申候様ニ有之候、依之田畑共ニ立毛者一向実入無之所々在々大ニ難儀仕候、此年之凶年ハ前後百年ニモ覚無御座候、国々民百姓大ニ騒立信州上州抔百姓之騒動ニ而何万人共なく徒党致大騒動ニ有之候、然共此近在之百姓何事もなく、罷暮シ申候、右之次第ニ而百姓殊之外困窮仕難儀致シ候大凶年故此処江書印申候
一、右凶年ニ付当村中大小百姓殊之外困窮仕春扶食ニ差詰り、朝夕粥ヲ煮其上〓の根蕨之根ヲ掘リ或ハ糖餅抔其外色々草木之業ヲ取リ糧ニ致シ漸々扶食ニ取続キ申甚難儀仕候、畢竟扶食ニ差詰リ候儀も雑穀無之候故右之次第ニ而難儀仕候、依之惣百姓相談致シ名所上人塚ト申所御料私領入合之場所ニて往古ヨリ秣苅来リ候所此度惣百姓新畑ニ開発仕度、当時之御役人衆江願上候処御得心被下弥々畑ニ相究リ惣百姓甚悦入申候、併畝歩之儀者壱軒前ニ付五畝歩宛引分ケ申候、並ニ組頭之役畑トシテ三畝歩宛之畑弐枚此度相談之上ニ而相究メ申候、此度、新畑之儀脇合ト違イ売地又者質入抔ニ致申儀決而相成不申候、譬惣村中立合之上ニて配 ニ及候共此畑之儀配分ニ相成不申候、万一潰レ百姓ハ不及申内々ニ而売地質入抔ニ仕候ハヽ、右之畑村内ニて取上ケ、村方取持可仕候間、子々孫々至迄右之趣堅く相守可申候、為後日之惣百姓連印証文仍而如件
                                     桧木村名主 伊右衛門
   天明四甲辰年                               名主 四郎兵衛
                                        組頭 与右衛門
                                        組頭 三郎右衛門
                                           勘右衛門
                                           利兵衛
                                           長右衛門
                                           幸右衛門
                                           惣左衛門
                                           三郎兵衛
                                           縫之烝
                                           次郎左衛門
                                           喜右衛門
                                           惣右衛門
                                           市郎右衛門
                                           忠右衛門
                                           林蔵
    右〆家数拾七軒
      畑数拾七枚
     外ニ役畑弐枚
   惣畑数〆拾九枚
 前文之通リ急度可相守候、万一売地質入抔ニ仕候ハヽ右之通リ村内ニ而取上ケ村方ニ取持可仕候、為其我等共奥印仕候以上
                              [新畑開発当時 御料名主] 四郎兵衛
                              [新畑開発当時 私領名主] 伊右衛門
   天明四甲辰年                            同私領組頭 与右衛門
                                     同〃 組頭 三郎右衛門
 
          乍恐以書附奉願上候事
                                 神保五郎兵衛知行所
                                  下総国香取郡桧木村
                                        名主 伊右衛門
                               御代官飯塚伊兵衛支配所
                               同国同郡同村
                                        名主 四郎兵衛
一、下総国香取郡桧木村名主伊右衛門同四郎兵衛乍恐申上候、私村秣刈場之儀者往古ヨリ同国同郡前林村地元ニテ御野馬立場ニ御座候、刈子村々ハ同国同郡桧木村、大門村、出沼村、沢村、多古村、染井村、中佐野村、遠佐野村、飯笹村、右九ケ村ニテ住古ヨリ秣入合ニ刈来申候事
一、享保七寅年六月右刈子ノ内沢村出沼村之者共、巧ヲ以大門村桧木村同刈子之鎌ヲ取申候ニ付早速地元前林村江鎌被取候由申達出入ニ罷成、御奉行所江御訴申上御吟味之上沢村出沼村申上候者、往古ヨリ無之野境有之ト申地元之様ニ申上候得共、野境之申訳不相立私共願之通被仰付前林村江済口御証文被下置難有頂戴仕、前々之通右九ケ村刈子ニテ秣入会ニ刈取申候、尤前林村之儀者地元ニ御座候得者毎年野廻ヲ付秣盗刈吟味仕候得共、長サ四拾丁余横拾五町余有之広キ野ニ御座候故、野廻リ者端々迄ハ行届不申候、依之刈子村ニテ前々ヨリ盗刈之鎌取之来リ申候事
一、当夏次浦村之者共右入会野江猥ニ入秣刈取申候ニ付、私村若者共六月廿六日七日両日ニ鎌六枚取之候、依之次浦村若者共同廿八日ヨリ晦日迄秣刈馬壱疋モ出不申、七月朔日ヨリ馬三十疋程歩之者二三人宛相添同五日迄毎日入会野江罷通リ候巧ミ有之様ニ相見ヘ申候、依之地元前林村ト次浦村之仕方申遣シ候ハバ早速出入ニ可相成筋ニ有之候間差控罷有候、然所、先達而別紙ニ申上候通同国同郡西田部村ト申所風祭リ相撲有之、所々ヨリ見物ニ罷出私村若者共モ見物ニ罷出候所、次浦村若者共無訳重頭ニ申掛喧嘩ニ可相成様子見物之者見届、大勢集リあれこれと紛シ候故、其場退キ申候、右躰之儀御座候ニ付他出モ難成、田畑之働いたし候茂次浦之者共如何様之巧ミ可有之哉難斗候故、農業茂不仕難儀至極仕候、何卒御慈悲ヲ以若者共他出モいたし候様ニ被為仰付被下置候様ニ奉願上候 以上
   安永四年未八月
                                    下総国香取郡桧木村
                                        名主 伊右衛門
                                         同 四郎兵衛
  御奉行所
 
     乍恐以書附御訴詔奉申上候
                                 神保五郎兵衛知行所
                                   下総国香取郡桧木村
                                    訴詔人 名主 伊右衛門
                                    同  百姓代 長右衛門
   農業ニ差障候出入
                               本間十右衛門様御知行所
                             相手  同国 同郡 次浦村
                             百姓
                               儀助 千蔵(以下四一人氏名略)
一、訴詔人奉申上候、当八月七日同国同郡西田部村鎮守祭礼相撲有之、私共村方百姓半蔵源蔵儀見物ニ罷越候所、同郡次浦村百姓儀助外四拾弐人之者共同見物いたし罷在候所、私共村方半蔵源蔵江申分有之由ニ而唯今可罷越旨申来候所、申分有之由ニ付如何様ニ理不尽可仕茂難斗存候ニ付被参不申旨申候得者、彼是難渋申悪口雑言仕其上打擲いたし、引つり可連行旨ニ而大勢取懸リ理不尽仕候処、見物之者共差押ヘ候故漸く其節右難儀相遁レ宿元ヘ可帰ト存候所、帰リ之道筋三倉村道祖神有之候場所江右名前之者共大勢徒党仕、半蔵源蔵を其分ニ差置間敷旨ニ而鍬鎌棒等を致所持相待罷在候ニ付外道を漸逃帰リ候(中略)何之意恨を以右躰百姓共江相掠メ候哉之旨承度申遣候所、忠右衛門(次浦村名主)挨拶仕候者、其儀者其村方之者共覚可有之旨申越候、依之右之段百姓共江申聞候処何ニ而モ意恨被含候儀覚無之旨申之候、小村之儀ニ御座候得者甚驚入申候、右躰之儀申越候ニ付如何様理不尽可仕も難斗、百姓稼農業ニ罷出候儀茂難相成容易ニ他行等仕候儀是又難相成甚難儀至極仕候(中略)私共組合同郡大門村外九ケ村役人共右之段取扱度由ニ而内済及熟談候得共、相手方之者共如何相心得候哉得心不仕候、次浦村之者共儀私共村方相掠メ、殊ニ農業等罷出候ハバ村方江罷越理不尽可仕旨日々風聞有之候ニ付、此儀ニ恐レ百姓稼必至ト相止メ銘々用心而已(のみ)仕罷在候而農業と相成不申、殊ニ御年貢御上納之差障ニ相成甚難儀至極仕候、打捨置候而者一村退転仕百姓共及曷命ニ候ニ付、当九月七日此段奉願上度御地頭所江御訴申上候処、相手方御地頭所様江当又御懸合御座候得共、相済不申候ニ付無是非御訴詔奉申上候、何卒以御慈悲相手名前之者共被為召出御吟味之上不差障候様被成下候ハバ一村百姓共相助リ偏ニ難有仕合奉存候、猶又御尋之節乍恐口上ニ而可奉申上候 以上
   安永四年未十月                       神保五郎兵衛知行所
                                   下総国香取郡桧木村
                                     名主
                                       訴詔人 伊右衛門
                                       百姓代 長右衛門
  御奉行所様
     一札之事
一、当六月其村方ニ而次浦村方之鎌六挺被取置候処ニ、此度又桧村次浦村尠之儀及出入候ニ付、拾ケ村役人共立合内済仕度故貰請預リ置申処実正ニ御座候、然者双方得心之上相済候ハヽ其節此一札御返し可被下候、為後証仍而如斯御座候 以上
                                 立合拾ケ村役人
   安永四未年霜月日                        惣代出沼村
                                        靱屓 印
  桧木村 伊右衛門殿
 
     取替申一札之事
一、当村若者共ト其村若衆中聊之儀有之、及出入ニ御指紙迄頂戴仕候所、出沼村靱屓殿並ニ拾ケ村役人中取噯ニ而双方得心之上相済申候上者、自今以後若者共不及申、此出入ニ付毛頭意趣遺恨無御座候為後証依而引替之一札如件
                                     次浦村
   安永四年未十一月廿五日                        年番名主 忠右衛門
                                        組頭 茂右衛門
                                           与兵衛
                                           恒右衛門
                                           五兵衛
                                           佐兵衛
  桧木村  名主 伊右衛門殿
 
 桧木村には二人の名主がいた。私領名主と御領名主である。村が相給(複数の領主によって支配される)の場合、領主はそれぞれ名主を置き、各種の御触れや御沙汰を伝達させたり、年貢徴収の責を負わせ、村方の取締りにあたらせている。天正十八年の神保氏張の『御知行立書』には「桧木村家数拾壱軒 代官支配分家数壱軒」とある。この壱軒が御領名主の四郎兵衛分であろう。
 『五人組帳』によって桧木村の人員を拾ってみると、享保二年には家数一二軒、元文五年は一二軒、明治三年が一一軒となっている。しかし天明三年の『新田開発願書』を見ると、家数一七軒一七名の連印がある。
 
   享保十一年桧木村五人組改帳
     人数合五拾九人  男三拾弐人
              女二十七人
              馬九疋
           この内奉公仕候者拾人
               出家 壱人
   六人組
 組頭 惣左衛門 四兵衛 三郎左衛門 与左衛門 三郎右衛門 次郎左衛門
   五人組
 組頭 孫兵衛 伊左衛門 縫之烝 喜兵衛 与五右衛門
 名主 隼人
 右之条々堅可相守、若違犯之輩あらば可為曲事、此旨年中両三度村中為読聞、常々合点仕罷有候様ニ可入念候、邪気を去正路ニ相勤候様ニ可懸心儀肝要、此段念入可申付者也
 右前書之御ケ条可奉拝見候、村中大小之百姓此五人組ニ壱人茂除之者無御座候、御ケ条書名主方ニ御願被成置候間、度々承之相守可申候、若相背申者候ハヽ如何様之曲事ニモ可被仰候、為其五人組帳面連判差上之候 以上
   元文五年申ノ二月廿五日
                                     桧木村名主 伊右衛門
                                        組頭 太兵衛
                                        〃  友三郎
   五人組名前
     組頭 太兵衛 利兵衛 伝四郎 平兵衛 三郎兵衛 甚左衛門
   五人組
     組頭 友三郎 佐兵衛 与左衛門 儀兵衛 吉右衛門
 
 また明治三年の『三等農書上帳』によると、家数人員は次のように記されている。
 
 戸数一一軒  人別五九人
 兼庄屋 伊右衛門 什長 惣左衛門 什長 四郎兵衛 利兵衛 林右衛門 三郎左衛門 七兵衛 勘右衛門 元右衛門 与左衛門 長右衛門