妙見山見徳寺
しかし桧木村は、家数も少なく寺を維持するのに困窮し、本山から祠堂金を借りるなどしている。その様相を示したものが、次の文である。
乍恐書附を以奉願上候
一、桧木村見徳寺儀旦家茂少ク、田徳少々有之候処去年迄六七ケ年不作仕、別而旱田場故打続四ケ年之旱魃ニ付、殊之外寺モ及零落ニ甚難儀仕候、依之惣檀中相談ヲ以、御本山様祠堂金拝借仕度御願奉申上候、併前々拝借仕候年賦返済金、是迄九ケ年返済仕当寅年返済仕候得者、返金引残リ之元金九両不残返済仕、此度新規ニ金三拾両拝借仕度奉存候、尚又返済之儀者前々之通リ拾弐箇年賦返済奉願上候、何卒偏ニ御賢察被成下見徳寺江御憐愍御差加ヘ被下、願之通リ拝借被仰付破レ候場所此度普請仕、見徳寺惣旦中一統ニ奉願上候、何分ニ茂御慈悲之御勘弁被成下偏ニ御救ト思召、右願之通リ拝借被仰付被下置候ハバ、見徳寺不及申惣旦中一同広大之御慈悲ト重々難有仕合奉存候 以上
寛政六甲寅年十一月 日 桧木村見徳寺
〃名主 与右衛門 印
〃組頭 幸右衛門 印
〃同断 勘右衛門 印
〃旦中惣代 伊右衛門 印
御本山様
矢作村 年預番 知足院様
同年預様
祠堂金とは、祖先の霊を弔うため祠堂の修復を名目に寄進された金銭のことで、田畑の場合もあった。祠堂金(銭)の貸借は、同じ寺院への寄付でも特別に扱われていたし、江戸時代には金融機関的な役割が大きかったようである。
このほか、文化十一年(一八一四)に名主助之亟の提出した同様文書がある。それによると家数一五軒とあり、祠堂金の返済は弐拾八俵付を永々見徳寺に寄付し、その田徳によって年々支払うことが記されている。
境内には古色蒼然とした板碑、六角地蔵、十九夜供養塔などが点在し、風雪にさらされながら何ごとかを語りかけてはいるものの、それに答える人はもう今一人としていない。次に、そのいくつかを記してみよう。
六角地蔵の高さは一・七メートルあり、刻まれた文字は次のように読める。「元禄十丁丑年(一六九七)十一月十九日 善女人奉勒修十九夜待二世安楽所 下総国香取郡千田庄九ケ村之内桧木」
如意輪塔は台石上七六センチの像で、「寛保壬天(同二年・一七四二)十一月吉日 施主当善女人 奉納十九夜待二世安楽攸」と刻まれている。
また、「天明八戊申年(一七八八)七月吉祥日施主村中」の刻宇が見られる直径三八センチの半鐘が、本堂軒先に下がっている。
本堂に向って左側に小池があり、その中の小島に建っている五三センチの石宮が弁財天で、「延享二乙丑年(一七四五)十一月吉日 小川利兵衛」と刻字されている。
これらが、同寺境内に見られる主な現存物である。