出沼は多古町の北端に位置し、本三倉・十余三とならんで栗源町に接している。戸数六五のうち商業に従事する者がわずか二戸という、本町においても数少ない純農村の風情をとどめる所である。
村の中央部にある低地帯は、かつて湿田あるいは沼池であり、村を二分する形で北側にのびていた。東に面する西側の斜面部分におもに人家が建ちならび、耕作のために出入りするにも、村から他所へ行くにしても、すべて沼池を通りぬけなければ出られなかったことから「出で沼」と誰いうとなく呼ぶようになったと、説く人もいる。
水田は、桧木字落合を水源とする小さな水の流れをはさんで、山合いに細長くのび、次浦区に出て栗山川へと連っていて、その面積はおよそ一〇九ヘクタールである。また、北側台地一帯はいわゆる五十塚(ごじゅうづか)古墳群に含まれていて、いくつかの古墳は今もなお謎を秘めたまま草深く眠り、さらに村の全域にわたって古代馬牧の形跡が各所に見られる。
平坦な山に囲まれた気候温暖な水辺は、山に獣を追い、水に魚を捕えるという、狩猟が生活の手段であった古代人にとって、このうえなく住みよい楽園であったに違いない。区域に残る古墳や遺跡は、現在の住民との関わり合いを証明できないにしても、歴史の彼方に去った人影を十分に偲ばせてくれる。
字大坊地六の一番地には横穴式古墳群が見られ、そこは、南面する崖の中腹で、六カ所は確認することができる。未発掘のため、調査資料などはない。
また、字平山六六六の二六番地にある古墳上には石塔があり、「宝暦五乙亥十月廿四日 本廻国供養 同行願主定慶興善」の刻字が読み取れる。
字新山六六四の一〇番地にある古墳からは、大型円筒型の埴輪が出土している。
我家ノ祖ナリ 文禄二年常久祈願ニヨリテ一寺ヲ建テ号東光真寺 慶長二丁酉歳三月六日八十一歳ニシテ卒シ東ノ山ノ隅ニ葬ル長子員胤具足馬具不残宝応東光ノ両山ニ納テ家老佐藤小川藤ケ崎ト共ニ里民トナリケル
貞享三丙寅年三月 常正
元亀天正(一五七〇~九二)時代の戦乱の結末、千葉氏の滅亡とともに、大須賀氏の松子城もまた廃城となり、一族郎党はことごとく離散した。
丹波守常久は松子城の支城高城の城主であった。そしてこの一統は出沼に限らず桧木・次浦・大門など千田庄内近郷の村々に離散している。これを書き記したのが常久の孫常正である。
系譜をみると常正は治右衛門を名乗り、その子孫は代々治右衛門を襲名しているが、三代目治右衛門の次男胤成は山倉三郎左衛門の養子となっている。
また右文中の宝応寺は、大栄町字引地にある大須賀地区随一の古刹で、かつて大須賀荘三八カ村の領主松子城主大須賀氏の菩提寺であり、多くの寺宝を有し、大須賀氏代々の墓碑や、高津原・桧木などの領主神保氏、さらに中野城主木内壱岐守の墓石などが苔むして法灯に光茫を放っている。
村の世帯数は、寛政八年(一七九六)の村定には三〇人が連署されているが、この数は全く分家を持っていない世帯数ではなかろうか。現在の世帯数には分家が多くみられ、栄枯盛衰は世のならいとはいえ、ここにもまた悲喜交々の変遷があったものといえよう。
次に記す区有文書の中に、数通の『村定』がある。最も古いものは寛政八年のものであり、他に天保・安政・明治のものが保存されている。これらの『村定』は惣百姓の連名がなければならなかったものであるが、それによると寛政三〇人、天保二六人、安政二七人となっている。
明治七年の『人員取調帳』を見ると、男世帯(農)二五戸、女同二戸、工二戸となっていて、家族合わせてその総数は一四三人である。すなわち農家二七、農以外の職業二、村人総数一四三人ということである。なおこのほかに僧一人がいた。
明治三十四年の『村定』には、連名者は三五人であるがこれは分家増によるものである。
一札之事
一、前々従御地頭所被 仰出候御法式之通リ博奕並賭諸勝負相背候者有之において者過料
一、博奕並賭勝負致宿候もの者 五貫文過料
一、同断 頭人者 拾貫文過料
一、同断 組合 五貫文過料
一、同断 半頭 三貫文過料
一、同断 見のがし候者 壱貫文過料
一、田畑方の作物盗取候もの有之候ハハ 右同断過料
右之趣堅相守可申旨村役人並ニ惣百姓立合之上致吟味候間、向後違背之もの於有之組合ニ而右之過料急度差出可申候、為後日惣村連印仍而如件
寛政八丙辰正月 日
茂左衛門 治兵衛 次左衛門
久右衛門 勘右衛門 三郎左衛門
七郎右衛門 勘之亟 縫右衛門
次右衛門 庄右衛門 利右衛門
弥右衛門 長左衛門 嘉右衛門
宇右衛門 甚右衛門 利兵衛
源右衛門 四郎兵衛 七郎兵衛
半右衛門 直右衛門 喜右衛門
甚之亟 五郎兵衛 惣兵衛
忠右衛門 長右衛門 平左衛門
議定一札
一、従前々被 仰渡候通御法度之趣賭之諸勝負ハ不申及 殊更費成売買抔至し候もの無之様先々厳敷取究相守候得共 近年猥リニ相成候由粗相聞候ニ付 今般村中一統相談仕再改ニ及義定仕候処 後日其節ニ至リ心得違之筋無之様左ニ記申候(中略)
壱番組 治左衛門 久右衛門 義兵衛 嘉右衛門 勘兵衛 三郎左衛門 次右衛門 利右衛門 源右衛門
弐番組 市右衛門 茂左衛門 利兵衛 長右衛門 惣右衛門 平左衛門 五左衛門 庄右衛門
三番組 忠兵衛 小兵衛 源之亟 左兵衛 縫右衛門 九兵衛 与兵衛 甚之亟 嘉左衛門
天保九年 戌七月廿九日
惣村
御組合衆中
諸色倹約ニ付議定書
第壱条 祝儀ハ総テ酒三献限リノ事
第弐条 不祝儀ハ酒無ノ事
(中略)
第十条 貰ヒ日待等ハ一切無之事
右 契約ハ区内壱同之協議ニヨリ明治三十五年十月ヨリ向三ケ年間堅ク相守申ス可キ事仍テ左ニ名捺印ス
明治三拾五年九月改ム
山倉三郎左衛門 多田菊太郎 佐藤常蔵 山倉常蔵 穴澤常蔵 山倉徳太郎 穴澤喜代松 山倉菊太郎 山倉源治
山倉卯之助 山倉太吉 富澤米吉 岩渕由蔵 山倉幸太郎 佐藤治助 日下部貞助 多田要蔵 山倉忠蔵 多田平左衛門
鈴木由太郎 鈴木慶助 鈴木寅松 穴澤由蔵 鈴木伊之助 穴澤米吉 佐藤嘉治郎 佐藤嘉左衛門 佐藤作五郎
高橋百太郎 三枝源四郎 佐藤惣右衛門 藤崎宗蔵 山倉豊吉
当区長
山倉三郎左衛門