熊野山東光寺
穴澤家文書によると「穴澤家の祖丹波守常久祈願によって文禄二年(一五九三)建立東光真寺」とある。その後災禍にあって寺宝などはことごとく焼失したが、正面に本尊薬師如来、両側に大師像があり、境内には苔むす墓石が林列して、訪れる人々に往古の歴史を語りかけている。
明治十二年の『寺院明細帳』によると「中本山野手村円長寺末 新義真言宗東光寺 本尊薬師如来 境内坪数三百七十五坪 境内所地耕反別三反壱畝拾九歩 山林六畝弐歩 檀徒人員百拾壱人」となっている。
ここに残る文書のうち、桧木村見徳寺の僧定慶の『往来手形』があり、一般農民のそれとは異なる文面が見られるので、次に掲げてみた。
往来宗門之事
一、此定慶ト申僧、下総国香取郡桧木村見徳寺隠居ニ而、前々より真言宗紛無御座候、此度日本廻国六拾六部為納経罷出候、国々御関所海陸共ニ無相違御通シ可被下候、若此僧何方ニ而茂病死申候ハ、御慈悲ニ御取置可被下候、尤此方江御付届ケ不及申候、為後日往来手形仍而如件
下総国香取郡 本寺
観福寺 印
延享五年戊辰三月
国々 御関所
御役人衆中様
そして、同寺境内には、次のような石造物・板碑が見られる。