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村の生いたち

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 村の生いたちについては伝承もなくさだかではないが、古い集落であることを証するものとして五十塚古墳群がある。
 そこには大小の古墳が無数に点在している。
 墓所としての古墳が造られたのは、大和朝廷(四〇〇)に始まり仏教伝来によって終るといわれるが、町内の他地区で発掘調査した古墳もおおむね大和時代後期のものが多い。
 これらのことから考えて、五十塚周辺には、大和時代にすでにこれらの古墳を築くほどの人々が生活していたということができよう。そして耕地の開拓が進むにつれて、農耕に便利な場所へと移住がなされ、やがて現在の集落の基盤が形成されていったものであろう。
 つぎに村名の起こりをたずねてみると、古代、朝廷直轄の稲穀を収納する倉庫を屯倉(みやけ)といい、その屯倉が各地に作られたのは、安閑天皇の頃(五三一~五三五)である。この時代に当地にも屯倉が作られ、そのことから三倉と呼ばれるようになった、とは考えられないだろうか。
 しかし、後世になって、はっきりと「三倉村」と書かれた文書として見られるのは、天正十九年の『水帳』が最初である。
 さらに、村の変革を辿ってみるが、谷三倉の高橋甚之亟家文書に次の古文書があり、重要な参考資料であるので、その一部を抜粋して記録にとどめたい。
 
 乍恐書附を以御訴訟申上候
     入会秣場出入
一、下総国香取郡谷三倉村之者共申上候、当村之儀者、住古より御高四百七拾石五斗三升余之村方ニ而、則御水帳壱本ニ有之、谷三倉村三倉村小三倉と申、一村之内御検地以前より三ケ所ニ御座候処ニ、先年猪子久左衛門様御代官所之節、両三倉村と小三倉村出入仕、其節小三倉村斗者野地並御高共ニ相分リ境相立別村ニ罷成候、其後慶安弐年ニ相手三倉村者内田出羽守様御知行所ニ弐百九拾四石相渡、私共村方ハ御料所ニ而罷有、七拾九年以前ニ当御地頭太田藤右衛門知行所ニ先年相分リ候、小三倉村共ニ一所ニ相渡リ申候、乍去三倉谷三倉両村之儀者田畑御高者相分リ候得共、元来一村之事故田畑一枚交リニ有之、別而両三倉者何連(れ)を村境と相定可申様曽而無之候間、往古より一同ニ致来、村附之秣場等迠入念ニ支配仕、馬草刈来申候(以下略)
   元文元年辰(一七三六)八月
 
 このようにして、もと一村であった三倉村が、まず小三倉が両三倉との出入りがあって分村し、ついで支配者の変動に伴って谷三倉が分かれたようである。さらに明治の町村制施行に当って小三倉は谷三倉と合併して、現在に至っている。