村のすがたの変遷を知るうえに、きわめて貴重な史料がこの村には残されていた。『太閤検地帳』である。この古文書はすでに茨城の郷土史家色川三中氏が発見し、『常総遺文』に収録したものであるが、正しくは『天正拾九年辛卯(一五九一)霜月十三日、下総国香取郡千田庄三倉村御縄打水帳』という。
豊臣秀吉の三大事業といわれる、全国統治・兵農分離・統一検地のうちの一つである。天正十年(一五八二)に山城国に検地を行い、以後全国的に実施した耕作地の面積調査であって、このときから一反が三百歩の新制を採用し、近世の石高制の基を築いた。そしてこの検地によって残存していた荘園制はまったく終止符をうたれたのである。
それまで、耕作地の面積調査がなかったわけではなく、各支配者によって行われてはいたが、それぞれ面積の単位が異なっていた。この検地では、一坪を六尺三寸四方と定めて歩と呼び、ついで畝・反・町を面積の単位とした。そして収穫高に応じて上中下の品等をつけ、石盛と称する標準収穫量を定めた。これを石高制における租税賦課の基準とし、石盛に用いる枡を京枡に一定した。同時に、検地のときの耕作者を名請人(貢租負担者)としてとらえ、近代的土地所有権の確立をはかったのである。
検地帳によると、当村の水田は二四町二反九畝、畑九町四反七畝一歩、屋敷三、二五七坪、戸数四九戸となっている。山林については、屋敷周辺の防風林だけが個人所有で、他は支配者が所有権を持っていた。
その後慶安二年(一六四九)には畑が二町一反八畝二一歩増加し、明治八年頃までには開拓はあますところなく行われ、田畑の合計は三六町一反一畝二〇歩となり、そして戸数五二戸、人員二七四人、内男一二八人、女一四六人と報告されている。人の力以外に頼れるもののない時代の開拓には、幾多の哀歓が秘められていたであろうが、今にしてはそれを知るすべもない。
その後、明治三十二年には五十塚の広大な原野が開拓され、昭和三十七年に水田の区画整理が行われて現在となった。現在の面積、戸数は次のとおりである。
水田 四四町二反六畝歩 宅地 七町八反四畝歩
畑 二五町三反二畝歩 原野 一町二反歩
山林 四一町八反七畝歩 その他 六反一畝歩
戸数 七三戸 人員三二四人 男一四九人、女一七五人 (昭和五十九年現在)