当地方の支配者として現在までその名を知られているのは、千葉氏の支族木内氏である。
その木内七郎正胤が、文明年間(一四六九~八六)に三倉村を治めたことを現代に伝える文書として、次の『薬師如来畧縁起』がある。まず、その全文を見てみよう。
薬師如来畧縁起
抑三倉村越川氏一家墓所草堂に立せたまふ薬師如来の由来をたつね奉るに。
仁王一百四代土御門院の御宇文明年中(一四六九~八六)に太田道灌、二階堂、里見義広等生実の城主原次郎友胤を亡さむとして当国葛飾郡国府の台におゐて兵乱を企て数日の合戦止ことなく、依て本城主千葉介輔胤、家門に氏名の猛きを撰び、葛原親王十三代の後胤千葉介常胤の五男国分五郎胤道十三代の孫、当国大崎の城主国分宮内大輔朝胤を以て馳向しむ。本より朝胤武勇無雙の壮士なれば、斯と聞より物具かため家士郎等を引率し其勢すてに二百余騎也。
又爰に三倉村の城主木内七郎正胤は娘壱人ありける故ニ大崎の城主宮内朝胤の舎弟三郎元胤を聟養子に貰ひ家督相続いたしける。是も武勇名高き者なれば、此度の加勢ひに引連勇みすゝみて出陣す。然所に上総国小田城の辺を通ル時、少しの草しげりたる其ノ中に、光明赫々として薬師の尊像歴然と草むらに浮み出現したもふ。三郎元胤奇異の思ひを生じ馬より飛下り、彼の仏を抱き上奉り礼拝し見るに、世に比類なき尊像也。元胤心に思ふよう此度怨敵退治の吉瑞と深く渇仰したもふなり。それより国府台に責入数日の合戦有けるにや、彼薬師如来並脇士十二神の仏力にて終に怨敵を平け目出度がい陣いたし、三郎元胤は城内へ御仏を移し奉り日々夜々に香花燈明をそなへ礼拝供養し奉りける。三郎元胤弐夜の夢に高貴の僧元胤に告ていわく、汝知らずや、彼薬師如来と申奉るハ恵心僧都一刀三礼調刻の御仏にて、生実大厳寺に立せたまふ所の本尊也。此度汝等原次郎友胤へ加勢の志によつて出現たまふ。此うへ信心怠るまじとゆふと思ヘハ夢ハさめにけり。
元享釈書ニ曰、源信ハ姓ハ卜氏ニテ大和国葛木郡当麻郷ノ人也、父ノ名ハ正親母ハ清氏タリシガ、父母ハジメ子ナキコトヲカナシミテ其郡ノ高尾寺ニ詣テ子ヲ祈ケレハ、母ノ夢ニ一僧来リテ一顆ノ玉ヲ与ヘラル ヨト覚ヘテスナハチ懐妊ノ心地ナリケレバ也。源信幼稚ノ時ノ夢ニ見ラル ハ、高尾寺ニ蔵アリ其蔵ノ中ニ多ノ鏡アリ。或ハ大キナルアリ或ハ小キアリ、又明カニシテ物ヲ照スモアリ、亦暗クテ見ヘヌモアリ。時ニ一人ノ沙門アリ、其暗クシテ小キ鏡ヲ取テ源信ニアタヘケレバ源信ノイハク、小ク暗キ鏡何ノ用ニカ立ベキ、大キニシテ明ケキコソ所望ナリトアリケレバ、沙門ノイハク、只此鏡ヲ以テ横川ニ至リ磨カルベシ、トイヘルトスレバ夢ハサメケル。横川ト云所不知、今日ヤ明日ヤト光陰ヲ送ラレケルヨリ、其後不思儀ノ縁ニ依テ睿山ニ上リ、慈恵大僧正ニ事ヘラルルヨリ始テ夢ノ事ヲ思ヒアハセケル、壮年ノ此スキヌレハ名聞ヲ忌ハヾカリ横川ニカクレ居テ、書籍ヲ述アラハシ其身ヲマモルツトメトセラサレハ、其撰集ノ巻々イハヾ一乗要訳往生要集阿弥陀経疏大乗対倶舎抄因明相違注等ナリ。台嶺ノ教法此時ニ至リテ繁昌セリ。依之恵心院僧都トコソ号シタリ。時ニ寛仁元年六月十日ニモナレバ、門弟子ヲ集メテ曰、今生ノ対面ハ只今日バカリナリ、若教祖ヲヨビ文義ノ中ニウタガヒ事モアラバ其不審問テ決断スベシ、後日ノ後悔ハ更ニ益ナカルベシトアリシカバ、諸門弟文義ヲ問モアリ、又愁涙ニ沈モアリ、其難問ヲカタハシ尊通セラルコト明白ナリ。サテ息ザシモヤヽ麁(アラ)クハヤマリケレバ、門人ヲサシノケ唯上足ノ慶祐一人ヲ留テ定印ヲムスビ、端座シテ遷化ヲトレリ。壽七十六ナリ。ソノ時天ガク空ニヒヾキ奇香四方ニ散ズ。山中ノ草木皆コトゴトク西ニ靡クトキク。
元胤夢覚て直に起上り香花燈明そなへ志ばらく合掌して拝し奉り、可程有難き薬師なれハ一宇の堂並小寺を建立して諸人に拝せ、現当二世 等を祈らせんと思ひ其霊地を尋るに、城内の大手より東に向ひ耕地へ出張たる一ツの峯有けれハ、是ぞ誠に薬師如来の地に相応なるベしとて俄に大工ニ仰せて堂寺を建立し、木内三郎元胤建立の寺なればとて寺号を元胤寺と号しけり。されバ日追テ諸人群集いたし、実に諸病悉除の御仏なりければ、弥々信心して歩行を こぶ輩ハ其御利益あり、又眼病の人ハ十二挺の弓箭をこしらへ御堂に掛奉り礼拝供養いたすに於ハ、忽闇夜の明けたるがごとし、これによって段々繁昌しけるとかや。光陰既に矢の如く、此近国近辺の千葉家不残滅亡して当村の城も落城しける故に、彼の元胤寺も大破に及び、住僧もなくして元の草むらとなり、薬師如来の御堂斗り名のみ残り然れ共、仏の方便にて此の里の越河一家の支配の墓堂となり、元胤寺の跡を言葉の誤にて今げないじと諸人唱へ来れり。然に宝永正徳の頃、越川一家の信者共御堂建立志ゆみだん宮殿共に志つらへて、今におゐて毎月七日夜老若男女等参詣して宝号だ羅尼を唱へて勤めけり。今又享和の末文化のはしめ、右の堂も破壊しけれハ此たび新たに建立し、其堂供養として二夜三日の念仏並薬師如来を開扉し奉江も三拾余年の開帳にあふハまれなる、うどんげの花まちえたる折なれハ、各々信心わたくしなく詣ふてゝ諸願かけたまへ、成就うたがひあるべからず
文化元年甲子(一八〇四)十一月吉日
当村鏡湖斉一舶謹書
この『薬師縁起』にその名を表記された武将を、『千葉大系図』によってたずねると次のとおりである。
国分之胤 宮内少輔法号奇岩
応仁二年(一四六八)閏十月二日、以二証書一寄二附大戸庄山野辺村権現之社領一矣。文明十一年(一四七九)正月、太田道灌攻二臼井城一。之胤出張、防二戦之一得二勝利一
国分胤盛、宮内少輔法号月宗
永正元年(一五〇四)十一月十五日、大戸庄山野辺村篠山坊職田畠等、如二先規一寄二附之一、授三書於二大弐阿闍梨一也。大永年中(一五二一)、原二郎友幸與二武田豊三・真里谷三河守一屢戦。応二千葉介之仰一、卒レ兵討二武田・真里谷一。
国分胤相、三河守
国分朝胤、宮内少輔
このように、木内七郎正胤の名は見当たらないが、聟の父や兄の名前が記されている。『薬師縁起』には朝胤の弟が元胤で文明の戦に出陣したことが書かれているが、『千葉大系図』によるとそれは元胤の曽祖父之胤の時代であり、両書間に年代的な交錯が見られる。
いずれにせよ、合戦や薬師尊像の出現などがあったといわれるときから三百年余の後世に書かれた縁起であり、時代的な考証を確かにすることは困難である。それにしても、一四〇〇年代には木内一族が三倉の統治者であったという傍証にはならないだろうか。
そして、その木内氏が居城としたといわれる本三倉城址が字古屋三七二番地の一にあり、顕著に堀の跡が残っている。城域はどこまでなのか明らかではないが、文明十一年(一四七九)頃千葉家の一族木内三郎元胤の居城であったと前記『薬師如来縁起』に述べられているところである。そこにある空壕はいまもって人の近づくことを許さないほど険しいところである。
本三倉城址
その空壕の角に祀られている妙見社は、富澤氏一族の氏神といわれ、また、千葉氏一族が守護神と崇めた神として知られている。これらのことからも千葉氏とこの村との結びつきが推測できる。
なお、同地の富澤家の裏に郷倉があり、後に土井利勝が領主であった頃(一六〇二)は、この郷倉に年貢米が集められ、その年貢米の管理を富澤家が任されていて、巡検に訪れる役人接待用の特製食器類が永く保存されていたという。
徳川時代の統治
やがて千葉一族の治世から徳川氏へと代り、天正十八年(一五九〇)に鳥居元忠が四万石で矢作城に入封したとき、矢作牧の霞村(牧に隣接した村を野付村、さらにその周辺の村を霞村といった)として鳥居家の支配下に入った。佐原市伊能家に残る『検地帳』によると、三倉村は、四七石五斗三升余の石高(生産高)である。
鳥居元忠は、紀伊国熊野権見巨農見大臣重高の後裔で、初めは鈴木氏と名乗る神官であった。道観重氏のときに法眼に叙せられ、これによって熊野山に鳥居を建てた。そのことから、人は鳥居法眼と呼ぶようになり、ついには「鳥居」と称して重氏が鳥居家の始祖となった。元忠は慶長五年(一六〇〇)八月一日伏見城の攻防戦で戦死している。
そして長子左京亮忠政は慶長七年(一六〇二)に十万石となって陸奥国岩城に移った。
その後慶長七年(一六〇二)十二月、土井利勝が一万石の禄高で小見川城に入城するに伴い、三倉村は土井家の領地となった。
利勝は三河国碧海郡土井村の生まれで、城主水野信元の庶子であるが、後に土井利昌の養子となって土井を名乗るようになる。家康の近侍を勤め、二代秀忠によって大名に取り立てられて初めて小見川城主となった武将で、徳川家柱石の臣である。
そして同十五年(一六一〇)には加増を受けて三万二千四百石の佐倉城主となった。
次いで三倉村は、大坂落城に際して検使役を勤めた徳川譜代の家臣で、慶長十七年(一六一二)に小見川城主(一万石)となった安藤対馬守重信に引き継がれた。そして重信も、元和五年(一六一九)には上野国高崎城へ移り、そのことによって三倉村は、元和四年(一六一八)から矢作領主となっていた七百八十石の旗本三浦正次の支配に変更され、その支配は、寛永十六年(一六三九)に三浦氏が島原の乱の功績によって下野国壬生城に転ずるまで続いた。
そして同年の十一月からは、香取・鹿島に八千二百石を加増され、すべてで一万石となった内田信濃守正信の支配を受けることになる。正信の曽祖父正之は、初めは勝間田を姓としていたが、遠江国内田郷を領していたことから内田を名乗るようになり、また平良文の後胤といわれている。
正之のとき、永禄十一年(一五六八)から徳川家に仕えた。特に正信は三代将軍家光の信任が厚く小姓組番頭を勤め、慶安四年(一六五一)四月二十日家光の死去に当って、阿部・堀田・三枝などとともに殉死している。
内田氏支配の間に、前述のように三倉三村の分郷が行われ、谷三倉・小三倉は太田氏にその支配が移り、本三倉は二九四石二斗四升八合の石高で従前通り内田氏が支配した。そして天保六年(一八三五)内田豊後守正道のときに所領の一部が陸奥白河へ移され、代って太田氏が入った。それから本三倉は、従来から知行地としていた馬場氏に加え、太田氏もその一部を知行地としたので、いわゆる二給地になる。
馬場左衛門利興は禄高六百石の旗本で、四石六斗七升七合の地を本三倉で知行していた。利興は、将軍家綱に仕えて小姓から旗本となり寛文元年(一六六一)十一月甲斐国巨摩郡から下総国に移り匝瑳・海上・香取と常陸国河内郡内の村を知行地としていたものである。
太田仁左衛門重吉は総高二千石余の旗本で、本三倉では内田氏と同高の二九四石二斗四升八合の地を所領している。なお、太田氏については谷三倉の項に述べてあるので参考にしていただきたい。そしてこの支配は明治まで続く。