明治十二年の『神社明細帳』には、「社格村社、祭神高御産霊大神、神御産霊大神、由緒不詳」となっているが、伝えられるところでは、勧請は一条天皇の長徳三酉年(九九七)九月酉の日ということである。
明治四年(一八七一)に郷社定則によって村社となり、氏子は本三倉・谷三倉・大門・高津原・桧木・出沼の六カ村で、さらに昭和六年一月三十日には幣帛供進社の指定を受け、以来一月十五日の御祭礼には幣帛供進使として、当時の村長が参拝していたものである。
その祭礼(御奉社)はきわめて厳粛で、古式によって行われ、第一番御雑煮糯、第二番御神酒、第三番御内板、第四番御末那板、第五番御鯰、第六番御名附、第七番御頭渡となっており、特に第四番の御末那板の式を行なう人は、両親健在で未婚の男子と定められていて、これに奉仕することは、一家にとってこの上ない名誉とされている。裃を付けて鯉の生造りを神に捧げる所作は、仕舞に似た素朴な振り付けである。