ビューア該当ページ

路傍の小祠・石宮など

697 ~ 701 / 1069ページ
 愛宕社 西徳寺本堂から山門へ向う右側山林の中の高台に祀られている。小堂に納められた石宮で、刻字は明らかでない。祭神は稚産日命ほか四柱で、防火の神として崇められている。
 この社には縁起についての古文書があり、それには次のように記されている。
 
     愛宕山大権現祭礼人別帳
                                          別当 福寿院
                                           当村願主
 夫レ愛宕大権現ト者本地地蔵大薩埵大慈大悲衆化度ヲ第一ノ誓願トスル菩薩也 雖モ諸尊ノ利生勝レタリト衆生接化ノ願力ハ無シタルハ唯此ノ菩薩ニ別名ニ号シ勝軍地蔵ト冠リ兜ヲ絡イ鎧ヲ六大無㝵ノ持シ錫杖ヲ騎テ白馬二顕ス勇猛ノ形ヲ如クシテ是ノ三昧ハ者皆ナ是レ顕シ利益広大無辺ノ深旨ヲ群生引入ノ之要術ナル者ヲ哉
 愛宕権現ト者則チ此ノ尊也 第一ニ鎮護シ火災ヲ殊ニハ悪鬼邪神退散シ使ム二下衆生ヲ悦楽此ノ尊ノ誓願也 爰ニ当村信心ノ氏子等異口同音ニ発願シ而寛政丁巳ノ初春廿有四日 於テ西徳精舎ニ奉謝祭礼ノ調ヘ儀式ヲ纔ニ運テ掌中ノ志ヲ愛宕ノ宝前ニ奉リ捧ケ神酒ヲ帰命シ再拝ス 雖ヘトモ有リト多年ノ志願先キ達テ無レハ大綱ヲ引ク者唯思〓ノ私ニシテ而難シ設ケ祭礼神座之式ヲ
 嗚呼幸イ哉当ニ今時到リ機根熟祭礼ノ願望成就ス 伏シテ願クハ依テ此ノ方便ニ令玉ヘ火災平伏諸障退散五穀豊饒万民快楽此ニ予雖ヘトモ短才不智ナリト也信心之願主等応シテ利益ノ問扣ニ鐘谷難ク黙シ利益挙テ一二之至要ヲ染紙秏スコト筆墨ヲ爾リ矣
 維時寛政九丁巳(一七九七)祀初春廿有四日
                            別当 西徳寺諦恵代
                                末葉沙門某甲和南
                                    印 印
                            人別 市治郎左衛門 縫之亟 利右衛門 源之亟
                               新左衛門 喜右衛門 伝右衛門 直右衛門
                               平左衛門 市右衛門 重兵衛 治郎右衛門
                               治郎兵衛 源左衛門 仲吉
 
 道祖神 字割木内七五三番にあり、旧佐原街道を次浦方面から来た入口の所である。村に災いの入るのを防ぎ旅人の安全を守る神でもある。
 石宮には「道祖神、願主本三倉村越川仁平」と刻まれている。
 もう一つ、字網崎台の「関西参詣供養塔」わきの小さな石宮は道祖神である。それには「安政二卯年(一八五五)五月吉日願主三田氏隠居宇平治 篠塚吉兵衛 篠塚長兵衛 小野寺利平 三田八兵衛 三田   」と記されている。
 三十三夜講塔 谷三倉飛地字笊田八九三番地の一で、旧佐原街道わきに立ち並んでいる。
 三十三夜講は、三夜供養ともいわれる月待行事で、旧暦の一月、五月、九月、十一月のそれぞれ二十三日には、月の光に勢至菩薩が浮ぶという。特に十一月の二十三日には遅い月の出を待って諸尊を拝む慣習があった。
 表に「三十三夜塔」「寛政八年丙辰(一七九六)三月吉日当村講中」と刻まれている。
 庚申塔 庚申信仰は、『宇津保集』にも載っている古い行事であり、この夜に眠ると、体内から三尸(さんし)という虫が抜け出して、天帝に我が罪を告げ口される、という道教の教えから、この夜は一晩中眠らず、三尸が抜け出さないようにするという行事である。
 一基には像が刻まれ、その左右に「奉待庚申改甲本三倉村中元文五年庚申天(一七四〇)  」とあって、台座に三猿像が浮き彫りにされている。もう一基には、「青面金剛寛政十二年庚申(一八〇〇)三月大吉日」とある。
 太子講塔 右の庚申塔わきに太子講塔がある。大工・木挽などの職人の祖として崇められる尊で、「聖徳太子」の名はひろく古今に知られている。
 職人との関係については、太子が、宮殿造営に当って職人の職分と位階を定めたとき、初めて大工・佐官などの呼び名がつけられ、そのことによって、以来、職人の祖といわれるようになったという。
 表に像があり、その下に「聖徳太子」、そして右側に「享和三年癸亥(一八〇三)三月吉辰日」、左側に「講中佐藤権衛門 遠藤利衛門 越川重兵衛 越川宇兵衛 石井林衛門 越川定七 富澤惣治郎 越川治郎衛門 越川金衛門 遠藤藤五郎 富澤伝衛門 石井佐吉 富澤五兵衛 富澤九兵衛 富澤 衛門 鈴木善兵衛 鈴木清衛門 鈴木清左衛門 斉藤孫兵衛 宇井彦衛門 石井三郎兵衛」の名が刻まれている。
 道標 字割木内七五三番地にあり、旧佐原街道が村へと分岐するところで、最近までは道の右側にあったという。この道しるべについて村の人たちは、「詳しいことはわからないが、これは亡き人の供養のために建てられたもので、それも或いは、旅の途中この付近で亡くなった人の冥福を祈ってのものと伝えられている」と話してくれた。
 表面に「皈空是心沙弥」、側面に「明和三戌年(一七六六)正月九日 北は阿らきた さわ道。左に東ハまつさき にしたべ やまくら いいだか 右に西ハいでぬま ふるうち ひしだ つぎうら」、とあり、裏面に「明和八年卯(一七七一)、本三倉(以下不明)」と読み取れる。
 題目石碑 字正司山六三七番地の一にあり、村の北側の水田と山林の境となっている道路を沢方面に向かって進むと、さらに途中から林の中を通って五十塚へと通ずる道がある。左右の樹木が高く、枝葉が頭上を覆って陽の光を遮っている。
 ほどなく左手に二基の石塔を見ることができる。
 刻字は表面中央に「奉唱満玄号三千部 南無多宝如来南無宗祖南無釈迦文仏日蓮大士」とあり、右側に「于時宝永四丁亥天(一七〇七)七月日」。左側に「三倉村法華宗一結之男女」と刻まれ、もう一基には正面中央に「南無妙法蓮花経南無日蓮大菩薩、高祖大士五百遠忌奉唱満首題千二百部」、右側に「安永八午己亥年(一七七九)八月日取越造立之功徳主三倉村」とある。
 関西参詣供養塔 字網崎台九〇五番地にある。県道多古佐原線から左折して村に入ると、山に突き当たる。かつて茶店があったといわれている。空地に、生垣の跡らしい面影がみられるが、その隣に石塔が四基ほど並んでいる。その中の最も大きいのがこの参詣供養塔である。
 安政の時代、関西参詣をした一同が、長旅の無事も仏の御慈悲と祖先の加護のお陰であると感謝して建てたものであろう。
 表に「伊勢御神楽四国西国大和供養塔」とあり、並べて「たべ やまくら まつさき てうし」、下に「講元井戸山村加瀬治郎衛門 加瀬長左衛門 渡邊治郎兵衛 前橋勘兵衛 加瀬利平 宮崎清兵衛 渡邊重兵衛 前橋勘左衛門 加瀬市郎兵衛」、左側には「南次浦井戸山多古芝山道 安政五年戊午(一八五八)八月日」、下に「加瀬治右衛門 前橋伝兵衛 久蔵長兵衛 加瀬与左衛門 前橋新左衛門 渡邊六兵衛 松本源兵衛 本三倉富澤内蔵亟 富澤長左衛門 鎌形縫右衛門」、右側には「北三倉前林なりた江戸道 次浦村土屋七郎兵衛 岡野与兵衛 岡村長左衛門 室岡新左衛門 堀井仁左衛門 小三倉村岩井権兵衛 西田部村伊藤庄左衛門 大原村瓜生平兵衛 上総国武射郡牛熊村行方庄助」、裏側に「石井直右衛門 越川治郎左衛門 大門村菅澤太郎右衛門 山田六郎左衛門 平山文左衛門 平山新右衛門 平山平右衛門 御所台村並木七郎右衛門 高萩惣右衛門 吉田村高橋源之亟」とある。