徳川期の古文書に、三倉は、もとは三つに分かれていたが総称して三倉と呼び、一村として扱われていたことが記してあり、『水帳』などにも「三倉」とだけ書かれている。その経緯についてのある部分は、後記の秣場出入の文書によって理解されよう。
網崎台の浅間社にある下総式板碑に「文永二年(一二六五)七月十一日」と刻まれているが、この頃はすでに集落が形成され、人々の生活の営みはあった。しかしこの時代の支配者はさだかでない。
本三倉文書に「文明十一年(一四七九)臼井城の攻防戦に、本三倉城主木内七郎正胤の娘婿三郎元胤が参戦した」と記されている。三郎元胤は矢作城主国分宮内少輔朝胤の弟である。
もとから一村といわれる本三倉村に城があり、その城主木内氏と国分氏の間に縁組みのあることはこの古文書にあるとおりで、さらに村内に国分氏の『官途状』を伝えた家がある。これらのことから、中世は千葉氏の支族である矢作国分氏の支配を受けていたものと考えられよう。
国分氏は千葉大系図に記されるように、源頼朝から「父」ともいわれた千葉介常胤の子五郎胤通が、千葉六党の一として国分を姓とし、矢作城にいたことに始まる。そして、胤通の四男六郎常義が矢作領主となり、建長三年(一二五一)に将軍頼経の密命によって鎌倉幕府の重臣北条家の討伐を謀ったが、事前に洩れて殺害された。そのあとを長子六郎太郎胤実が継ぎ、以来領域は明確ではないが、栗山川以北の佐原市周辺を治め、十四代大膳太夫胤政は天正十八年(一五九〇)に北条家の敗北とともに矢作城を開城して妻の実家を頼って鹿島に隠棲した。
十五代庄太夫胤明は医師となって世を過し、十六代権右衛門胤光は寛永元年(一六二四)に二百石をもって水戸徳川家に仕えた。その後は代々水戸徳川家の家臣として明治に至り、後裔は水戸市に在住のことと聞いている。
この間に、二十三代の利兵衛胤将が、文化五年(一八〇八)三月に先祖供養のため旧領矢作を訪れたとき、それを伝え聞いた旧家臣の子孫が、かつての重臣であった佐原の伊能家に集まった。そのときに作られた名簿から多古町の人達を抜粋すると次のようである。
「作三倉高橋主計、高橋嘉兵衛、高橋作左衛門、高橋甚之丞、高橋与右衛門、高橋源左衛門、高橋源兵衛、多田縫殿右衛門」
また、一方国分家がその主従関係を証するために書き与えたと伝えられる『官途状』が三点発見されている。それぞれ「官途 宝永四年霜月吉日 印 多田清右衛門」「官途 宝永四年霜月吉日 印 高橋甚左衛門」「官途 元文六年二月吉日 印 高橋甚之丞」と書かれている。
この『官途状』を国分家系譜に照合すると、宝永四年(一七〇七)のものは十九代理兵衛胤長で、水戸徳川家書院番を勤めて宝暦元年(一七五一)十一月に六十二歳で没した人である。元文六年(一七四一)のそれは二十代理兵衛胤勝であり、享保四年(一七一九)に生まれ同じく水戸家の金奉行を勤め、寛政三年(一七九一)三月に七十二歳で亡くなっている。
本拠の矢作城が無血開城をして城主が他国に逃れ、関東一円が徳川家に掌握されると、当村地域を支配していた矢作城の支城ともいうべき本三倉城は、自ずと廃される運命にあった。
徳川の世となり、最初に谷三倉一帯を支配したのは鳥居元忠で、四万石の禄高で矢作城の城主となり、長子忠政が慶長七年(一六〇二)に陸奥国岩城へ六万石となって移るまで続いた。これに続く支配者は資料がなく不明であるが、幕府直轄地として関東郡代の統治下におかれたもののようである。
そして寛文元年(一六六一)に、二百石の旗本太田氏が甲斐国山梨郡の采地を下総国香取・葛飾・武射三郡のうちへ移され、このときから谷三倉(小三倉を含む)、下吹入が太田氏の支配するところとなった。
太田氏は藤原氏の出で、天慶の雄俵藤太秀郷の流れをくむ名家であり、左衛門太夫道灌を生み、宗家は五万石遠州佐野郡懸川城主である。
この支流の太田次郎左衛門重光の二男で庄兵衛資貞が一家を創立し、谷三倉の地頭となった二代目の仁左衛門資直(また重元ともいう)は、二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕えて老中支配大御番頭役を勤め、寛文五年(一六六五)十月二十二日に没し、江戸谷中本行寺に葬られている。
以来代々、谷三倉を知行地として明治に至るのであるが、この間、谷三倉を除く他の采地は時により入れ替りながら武射郡下吹入村、海上郡岩井村、香取郡分郷村・上小堀村・谷三倉村・本三倉村・安房国長狭郡金束村・平塚村、相模国鎌倉郡長沼村・下柏村の一〇カ村に及び、石高も二千石あまりとなった。
明治からは住居を谷三倉字中台七四三番地に定め、江戸屋敷の建物を移したといわれ、今もその書院は高津原の津島家に残されている。
村に移り住んだ太田正斉とその養子藤右衛門は、屋敷内に「集成舎」と名付けた村塾を開いて村人の教育につとめ、多くの子弟を育成した功労が高く評価されている。
墓所は村の共同墓地内にあり、「太田正斉明治二十一年九月二十五日 誠禅院 輝玄通居士」「太田栄太郎大正十四年十二月二十七日五四歳 てつ大正十年十月十日四七歳 稜徳院栄岳教清居士 澄心院栄室妙順大姉」「太田藤衛門大正五年三月十四日没 太田なを大正五年四月十七日没 常楽院無量教大居士 宝池院心蓮妙遊大姉」と記された三基の墓石には、村人の手によって季節の花が手向けられている。
次に、太田家変遷の一部を名主重左衛門が記録した文書が残されていたので、その一部を掲げてみる。
御用人より御手紙趣
天保二歳(一八三一)八月十一日殿様御儀御用之義有之候附五ツ半時御登城被成候処、堀大和守様御書付御渡し被成候旨、大久保駿河守様御渡し被成候、依之即御登城被成候処、数年御出精御勤被成候附千石高ニ御加増被成下候旨被為承仰候、右ニ付三ケ村共為恐悦都合次第出府可被致候、此段相知らせ申候
三ケ村為恐悦蝋燭台壱対献上仕候
御用人上野右平様江壱本献上仕候
天保三年辰年(一八三二)十月迠ニ房州ニ而六百石余、相模ニ而四百石余相渡リ申候
天保四年巳(一八三三)三月御用人上野右平様房州金束村平塚村江御改ニ相下リ候
香取鹿島参詣有之 両村名主御供仕候
殿様勤向ハ御小姓頭取新御番頭格奥勤
殿様御名太田下総守号ス
若殿様御名太田播磨守号ス
水野出羽守御触出し
天保三辰(一八三二)国中御高改有之
一、高弐百六石弐斗弐合
内三拾石五斗九升五合年号不知新田高
但し小物成高入無御座候、改出高無御座候
但御相給並御朱印地除地寺社領等無御座候
外見取場田方拾六町五畝廿歩
畑方、弐町壱反六畝廿七歩
右之通御屋敷ニ而水帳改之上書上仕候、後日御改節為心得書印置申候
天保七申(一八三六)正月十九日、殿様御小姓組御番頭格承仰候
天保九年(一八三八)七月朔日、御用御取次被仰付、御加増千石配領仕候、御加増地下総国香取郡三倉村高弐百九拾四石弐斗四升八合、同国同郡分郷村高弐百四拾四石八斗三升五合九勺三才、同国同郡上小堀村高五百七拾四石八斗四合、右配領仕候内九拾石余者、同国岩井村上総武射郡下吹入村御公様江替地ニ差上申候
太田下総守様天保十一年子(一八四〇)三月廿三日御隠れ被成候
興隆院殿忠恕獻徳日仁大居士霊位
太田下総守様御子息太田播磨守様、御小姓頭取数年相勤候依勤功ニ天保十二丑年(一八四一)御小姓組新御番頭格奥勤メ被仰付候
太田播磨守様嫡子太田勝三郎御召被仰付候者、天保十三寅年(一八四二)十一月即御本丸御小納戸詰被仰付候、但シ御年拾四歳御 不出
太田勝三郎様天保十四卯年(一八四三)五月御小姓役被仰付候
太田播磨守様天保十四卯年(一八四三)四月日光御参詣御供被仰付、首尾能御勤候御褒美有之候、御褒美之儀者目録ニ而頂戴仕候
天保十四卯年(一八四三)十一月中即御小姓組番頭格被仰付為、御足高として御蔵米ニ而十石被下置難有頂戴仕候
同年十二月十二日若殿様儀太田勝三郎様と号候処、即太田加賀守様と御改名御免被仰付難有改名仕候
弘化三丙午(一八四六)十二月大殿様、御側役被為蒙仰候
太田加賀守様嘉永二年(一八四九)三月太田下総守様与御改名仕候
小金原御鹿狩御用ニ付若殿様御供被仰付首尾能相勤候、頃ハ嘉永二(一八四九)三月十八日也、勢子人足高百石ニ付六人五分触当、正人足之外掛り持高張持弁当持相掛り候、当村人足拾壱人次浦弐人小三倉ゟ(より)五人都合拾八人罷出ル、但シ宰領道具持共拾八人也
若殿様太田下総守様被遊御隠れ、即三男伊三郎様御世続御小姓役被仰付、猶又中奥御小姓被承仰候、頃ハ安政二年(一八五五)、同三年辰(一八五六)十二月御任官被遊太田遠江守与御改名被遊候
安政三辰(一八五六)ノ九月中御用人様被遊御廻村、拙宅江御出、夫ゟ小三倉村江罷越、夫ゟ拙宅江帰り三倉村西徳寺江御立寄被成、夫ゟ三倉蔵之丞宅江相越、夫ゟ上小堀村新福寺分郷村江相越、夫ゟ御帰城被遊候、御供侍壱人、鑓持壱人、両人江為祝義金壱朱宛遣し申候、御用人様ゟ西徳寺江為土産ト金百疋上茶少し遣ス、三ケ村名主方へ御用人様ゟ御土産被下但し上茶半丁ツヽ被下、外ニ浮世絵三枚ツヽ被下
名主方ゟ玉子壱束上ル、但し両人ニ而重左衛門、権兵衛、両村方ゟ味噌漬壱軒ニ付壱本宛献上仕候
右御用人上野伝右衛門様御廻村之節、御殿様新林被仰付承知奉畏候、翌安政四年巳(一八五七)三月廿三日林立ニ相成申候、但し木数二千五百本也場所池ノ台也
太田播磨守様御法号、実乗院殿智徳隆法日諦大居士、行年六拾三歳、安政四丁巳歳(一八五七)閏五月八日
此節為御悔三ケ村ニ而金三分御上江上納仕候、上野伝右衛門様へ三ケ村ニ而金壱分御悔差上申候、川田佐仲様へ三ケ村ニ而金弐朱差上申候
太田播磨守様奥様御法号、実厳院殿妙守浄貞日香大姉、安政四丁巳(一八五七)四月廿一日
此節三ケ村ニ而御悔金弐分上納、上野伝右衛門様へ三ケ村二而金弐朱、川田佐仲様江金壱朱御悔差上申候、但し三ケ村惣代相勤申候重左衛門
安政五午年(一八五八)仲秋頃太田遠江守様、筑前守様与御改名被遊候
殿様御儀安政六未(一八五九)八月廿八日御用之義ニ付御登城被成候処、甲府勤番支配被仰付、御勤中三千石之高ニ御足高、外ニ甲州ニおいて御給地千石被下置候間、為恐悦与(と)一村壱人惣代ニ而可被罷出候此程申達候也
文久三年癸亥(一八六三)三月三日太田筑前守様甲府ゟ(より)御帰府被遊、御小姓組御番頭被為承仰候、同年同月奥様西徳寺江御旅宿仰奉、請荷物送り被下候、小見川向ゟ長持拾壱荷請佐原向ゟ長持十荷其外加物等取、右者異国打払候付国司外様国々に御引取、御旗本奥方夫々御知行所江御立込被遊候
右筑前守様御書院番頭被仰付、其砌御上落御供被為承仰候、頃ハ元治二丑(一八六五)ノ正月廿七日御出立、三三倉ニ而人足六人相掛候
この古文書によって、太田家についての多くがわかり、同時に世相の一端をかいま見ることができ、貴重な記録であるといえよう。