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熊野神社

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 字蛇峯二七五番地の一が所在地で、小三倉の産土社である。明治十二年の『社寺明細帳』には「祭神事解男命、速玉男命、菊理姫命、由緒不詳、社殿竪五尺、横四尺、拝殿竪三間、横二間、境内坪数百八坪、氏子十戸、立木百年以上のもの百三本、うち最も大きなものは楠で、目通り一丈、枝下三間余である」と記されている。

熊野神社

 本社は和歌山県勝浦町那智山にあり、平安期以降に熊野信仰が盛んになるにつれて、氏神、産土神として全国に分祠されたといわれ、また修験宗(山伏)の霊山としても知られている。
 境内には幾つかの石宮などがあるが、鳥居の前右側にある神名の読み取れない石宮には「文化八年未(一八一一)九月吉日 岩井紋兵衛」と刻まれている。
 拝殿前の手洗いには「嘉永六丑年(一八五三)九月吉日 願主岩井八左衛門 岩井紋兵衛 橋本五衛門 橋本六衛門 岩井権兵衛 岩井大内蔵 岩井喜兵衛 橋本源衛門 橋本権左衛門 岩井茂左衛門」とある。
 境内の左裏に三基の石宮があって、その一つには、「安永八己亥(一七七九)五月吉日 水神宮 小三倉村大内蔵」とかすかに読み取れる。この石宮は、かつては字船津三七五番地にあったが、そこは水神の森といわれ、木々に囲まれて栗山川を直下に見る丘であった。
 しかしこの森も明治三十八年頃に伐り払われ、石宮は鎮守境内に移されてその跡は畑となった。名残りに一本立っていた松の木もすでに枯れてしまい、現在はその跡形もない。
 この水神宮は、明治十二年の『社寺明細帳』にも載せられていて、それには「祭神水速女命、由緒不詳、石祠二尺・一尺、境内廿一坪、氏子十戸、百年以上の木楠一本、もち一本」とある。他の石宮二基は、刻字も読み取れない。
 熊野神社の御奉社は例年一月七日と定められているが、これについて、他に見られない次のような文書があるので、特に掲載して参考としたい。
 
   当番村内順巡り
     吸物芋大根 昔ハ干海老入
     鎮守 熊野三社大権現
 御奉社年久ク相止テ其中ハ面田ノ義名主大 蔵作リ取ニイタシ居候所度々御咎メヲ蒙リ、名主宇兵衛病死ニ付家内ノ者奉恐、時ニ中奥寛政十二庚申年(一八〇〇)正月七日初リ、にごり酒ヲ造リ大 蔵よ 始メ申候、寛政十三年酉(一八〇一)正月権左衛門当番、宮田埜ぢつ加、田枚四枚、
 我無キ跡ニテモ大切ニ致可置者也、権左衛門隠居、庄左衛門書残ス