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由緒・縁起

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 修験道の成立は平安時代ともいわれ、この道に入って修行するものを修験者(山伏)といい、もとは山野に修行する僧を指したが、やがて出家のみにとどまらず在家俗形の者であっても苦行修練するものをひろく称するようになった。やがて役小角(えんのおづの)を開祖として、各地に修行場としての霊山が開かれた。
 当寺の系列は出羽三山を修行場とする派で、明治五年に廃止されたが、現在は修験宗として再興されている。
 当寺が羽黒山系修験道の行屋であったことを証する文書が保存されているが、それは次のようなものである。
 
     補任院号事
   授与  法積院
   右任先例令免許処如件
   寛文十一辛亥(一六七一)八月五日
   羽黒山執行圭海 印
 
     補任寺山号事
   授与 寿命山無量寺
   下総国三倉村之行屋代々依有古跡之由緒寺山号令免許処如件
   寛文十一年辛亥(一六七一)八月五日
   羽黒山執行圭海 印
 
 また、天明四年(一七八四)十月に、本寺である和田村(神崎町)妙法寺に宛てた名主嘉兵衛の文書によると、
 
  一、境内 長サ拾間、横八間
  一、家  長サ七間、横三間
  一、本尊 大日如来、不動明王、地蔵菩薩
  一、田地 二反二畝十二歩新田ニ而御年貢地
  一、畑  四畝歩
  一、山林 少し有
 
 このようになっている。
 しかしこの建物も昭和六年に失火のため全焼し、堂宇は失われてしまった。再建された建物は公民館として併用され、仏教行事は、一つだけ残った小堂において行われている。
 この本尊は、真言宗開祖の弘法大師と新義真言宗創始の興教大師で、清左衛門・幸右衛門両家が寄進したものと伝えられている。
 内陣中央に一体の妙見尊像が安置されているが、火災後に本三倉の西徳寺から移されたといわれている。千葉家の守り神である妙見尊像が、国分家家臣の住みついた村に移祠されたのも、そこに何かの因縁を感じさせるものがある。御厨子の底に「妙見尊文化五[戊辰]年(一八〇八)三月造立 西徳寺法流第三世宥盛」と記されている。