ビューア該当ページ

寺域の古碑・小祠

723 ~ 724 / 1069ページ
 次に、境内にある石碑などに目を移してみよう。
 明治四十一年三月建之になる第二世鵞黄庵一候(高橋幸右衛門)翁の句碑がある。
 翁は宗匠として元治、慶応、明治にかけて多くの門弟を指導したといわれ、そのためかこの村には数点の毛筆句集が残されている。その弟子達が翁の功績を後世に伝えるために建てたのがこの句碑である。
 題字は香州逸人の筆になり、表に趣旨の説明とともに翁の作と思われる句「ゆるされて居どころうれし花筵」と刻まれ、裏には「多田政蔵 高橋金七 高橋太助 高橋佐一 高橋仁助 本三倉鈴木松太郎 大門藤井庄助 藤井鉄治郎 山田豊吉 出沼山倉菊太郎 井戸山平山甚五兵衛 飯笹飯塚竹治郎 柏熊八木源蔵 中村桐谷芳太郎 発起人斉藤百治郎 高橋菊松 高橋源七」と連記されている。
 句碑のかたわらに一群の墓碑がある。無量寺は、残された記録によると無住となっているが、初めは住職もいたようで、その墓碑と思われるものが二基ほどある。
 一つは、表に「権大僧都泉海、権律師中将不生位」右側に「宝暦六丙子天(一七五六)五月二八日」左側に「延享元甲子天(一七四四)三月一九日」とあり、もう一つには、「元禄十一刁(一六九八)二月二日道清禅定門、妙各禅定尼元禄十一刁(一六九八)二月二六日、霊位施主満海二親為菩提」と刻まれている。
 次いで「記念碑奉唱光明真言百万達成、講中善男女、為現当霊益」とあるのは、二十三夜講碑である。または御三夜講ともいわれるもので、それは阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩)が陰暦十一月二三日の月に現われ、これを拝むことによって餓鬼畜生地獄の三悪道から救われるという信仰にもとづく講で、三基あり、それぞれ「奉待二十三夜二世安楽、宝永二年乙酉(一七〇五)四月十五日、小三倉村同行四十人、奉三  待二十一年 二世為安楽」「奉待二十三、二十一年施主高橋氏 享保二年丁酉(一七一七)三月吉日」「奉待廿三夜講中、明和七庚寅天(一七七〇)十一月吉日」と刻まれている。
 十九夜講碑。月の二十日は千手観音の縁日に当る。このため前日の十九日夜は堂舎に籠り、読経精進して当日を迎える習わしである。
 千手観音は千の慈眼千の慈手を具して衆生を済度するといわれている。そして三基の石塔には次のように刻まれている。「善男女廿有余人 安楽 奉待十九夜 元禄十三年辰(一七〇〇)十一月十九日 作村」「奉待十九夜二世安楽之所 宝永六丑天(一七〇九)十一月十九日 同行敬白」、「奉待十九夜講中作三倉 宝暦三年酉(一七五三)三月十九日 善男女編中」