浅間社 字網崎台九〇五番地の五一付近にあり、稲荷神社前の畑地東端で、木の間から下方の水田を見下すことのできる眺望の良い所である。
同じ畑の中に二つの塚があり右側の塚の上にある小宮が浅間神社で、いつの時代に分祠されたかはわからないが、本社は富士山頂にあり、富士講の本地でもある。
左側の塚の上に二基の下総式板碑が建てられているが、この一基は文永二年(一二六五)造立のもので、現在発見されている多古町内の板碑のうちでは最古のものである。すなわち、この時代すでに仏教を信仰し、板碑を造って供養するほどの宗教心と富に恵まれた人達が生活していたことを証するものといえよう。
中心上部に梵字があって、上下を天蓋と蓮座が囲み、左右に「光明遍照十方世 念仏〓生 取不捨」、下に「文永二 乚刃(乙丑・一二六五)七月十一日」とあり、もう一基には、「南無妙法蓮華経」の文字の下に蓮座があり、その左側に「天文十九年庚戌(一五五〇)七月九日」と刻まれている。
大神宮 字中台七三九番地の高橋甚左衛門家宅地内に祀られていて、伊勢皇太神宮の主神・天照大神を祭神としている。
この社は、その昔は鎮守社の前にあったもので、これを勧請した高橋家はそのためか、屋号を別名「御伊勢」とも呼ばれるようになったという。いつの頃にか現在地に移されたが村民の尊崇の念は変ることなく、七五三の祝いなどにはまずこの社を拝し、それから鎮守社を詣でている。
また同家は、村内高橋家の総領で最も古い家ともいわれ、国分家の『官途状』も伝えているが、大神宮に関する記録はなく、口伝のみである。
道祖神 字道祖神七四五番地にある。旧佐原街道を五十塚で別れて来ると、村の入口に小さな社があり、この中に小宮石碑が数基ある。
小宮が道祖神で、祭神は猿田彦命である。刻字は「元文四年未天(一七三九)九月十七日 施主大工伊兵衛」とある。
道しるべ この場所が追分け(分岐点)になっているせいか、大きな道しるべがあり、その一基には「奉順礼日光山善光寺四国西国伊勢参宮供養塔、南多古東条日吉二川横芝東金道、明治三十一年二月二日建之 西本大須賀成田東京道 北栗源香取佐原道常磐山倉小見川道」とあり、台石には「越川子之助 石井万太郎 越川茂八 谷三倉区高橋重左衛門 斉藤卯之助 高木五兵衛 高橋仙太郎 高橋長松 発起人高橋重左衛門 斉藤宇之助 高木庄助」とあって、各名前の下に母何某というように女名前が刻まれているが、読み取れないものが多い。
また、もう一基は字向山八二六番地にあり、沼田川を渡る佐原街道が、次浦と分かれるあたりで山につき当るが、右へ行けば谷三倉、左へ向かえば本三倉である。
この道しるべには、表に大きく「奉順礼四国西国供養塔」小さく右に「つぎうら、たかつはら、ゐどやま」左に「たこ 志はやま かづさ」とあり、下に「井戸山村渡邊彦右衛門 高津原村菅津平右衛門 次浦村佐藤善兵衛 岡野与兵衛 平山嘉左衛門 佐藤宗兵衛 佐藤四郎兵衛 山倉清左衛門 土屋小右衛門 佐藤惣右衛門 大根村高木長右衛門 桜井平右衛門 谷三倉斉藤治郎兵衛 高橋重左衛門 高橋太郎兵衛 高橋伊衛門」と記名されている。
そして、左右の側面に「嘉永五年壬子(一八五二)八月吉日」とある。
馬頭観世音 字大台九〇五番の一〇六に祀られていて、現在は畑の一隅であるが、かつては伯楽場であったところといわれている。高さ四二センチから六〇センチあまりの石塔が五基ほどあるが、天明三年(一七八三)のもののほかは、明治から昭和にかけてのものである。
庚申塔 字網崎台九〇五番地の五五付近で、鎮守社前の道路を本三倉へ向かった道の端に建てられている。病魔悪鬼退散の庚申信仰の本尊である青面金剛を祀ったもので、それぞれ、次の文字が読める。「青面金剛王安政七庚申(一八六〇)三月吉日 当村講中願主三郎兵衛」「寛政十二年庚申(一八〇〇)十二月吉日 青面金剛尊作三倉中」
もう一カ所は字庚申塚七五七番地の一で、谷三倉から五十塚へ通ずる道路の端にある。
正面に青面金剛像、台座に三猿が刻まれていて、「奉待庚申 諸願成就作三倉村 享保四年己亥(一七一九)八月廿日高橋佐左衛門」とある。
阿弥陀堂 字小三倉二八一番地にある。ほぼ村の中心地であり、道路からは見えないが、木立に囲まれたほの暗い中に建っている。
岩井権兵衛寄進と伝えられているのみで、建築の時代を証するものはないが、棟札に「大工次浦村四兵衛」と書かれている。この人は俳句の造詣も深く、弘化四年(一八四七)に没した人なので、建った年代もほぼ推測できよう。
本尊は阿弥陀如来である。
脇侍としての観世音菩薩、勢至菩薩も安置されているが、仏師多古町笹川善治郎の作で、明治二十七年一月二十七日に西徳寺住職鈴木鑁玄によって開眼されている。
また、栗山川水争い(明治二十七年)に際して不幸にも倒れた人々を手当てし、安置したのもこの建物であり、今も各種の宗教行事に使用されている。
境内は、一部が石塔場となっているが、その中に道標が一基ある。もとは入口の道端に立っていたといわれ、表に「西国順礼供養塔 文政十一年(一八二八)子六月二十六日」右側に「次浦村平野清右衛門 同藤崎佐左衛門 同高橋久兵衛 小三倉村橋本六右衛門」とあり、左側に和歌が刻まれているが判読できなかった。
観音堂 字小三倉三〇五番地にある。阿弥陀堂の横を入ったところであるが、建物は岩井茂左衛門寄進と伝えられている。
本尊は聖観世音菩薩で、納められた厨子の中に「万延二年辛酉(一八六一)三月改」の札がある。堂内に高さ一〇センチほどの古い甕が二個保存されているが、このことから別名「甕堂」とも呼ばれている。
この甕は隣家の岩井権兵衛家で住居を新築したときに屋敷内から出土したものであるといわれ、年代は不明である。
同家の口伝によると、天明飢饉の頃に村民救済対策の事業として住家を再建したということであり、そして昭和五十一年に古い作業場を改築したとき、柱の差し込み部分に「天明五年(一七八五)三月十五日」の墨書が見られたということから考えて、甕の出土もその頃のことではなかろうかと推測される。
子安様 字越場四六八番地付近にある。次浦から小三倉に向う山裾の畑の中に、塚状のものがあって、その上に二基の石塔が立っている。
その一つには、如意輪観世音と思われる像が刻まれていて「当村女講中 天保三壬辰(一八三二)十月吉日」とあり、もう一つの岩井茂左衛門家寄進と伝えられているものには「秋月妙正信女 宝暦七丑(一七五七)七月二十八日」とある。新しい季節の花が手向けられていた。
庚申塔 次浦からの道を人家のあるところに辿り着き、そこを左側に入って行くと、分岐点の道ぞいの一段と高い所に青面金剛像を刻んだ石があり、台座には三猿が刻まれていて「元禄十三庚辰天(一七〇〇)」とだけ記されている。
金毘羅社 字蛇峯二七三番地にある。鎮守参道の左方にあたり、岩井喜兵衛の勧請になるもので、現在も同家によって神事が行われている。
縁起については、松尾町八田の金毘羅神社から分祀したと伝えられているのみで、詳細は不明である。しかし台石に刻まれている氏名を見るとき、太田家が支配していた村々の名主が多いことに気づく。ここに判読できた氏名を記してみると、「上野氏 算氏 清川氏 原沢氏 天保九戊戌(一八三八)十一月吉日 佐原市本宿 左伊衛門 江州 白升村小島五衛門 小島徳衛門 金束村小原甚助 宮下弥兵衛 大工岩右衛門 神田永田町 石橋笠右衛門 田中儀兵衛 鳫金弥徳兵衛 相州柏尾名主斉藤利左衛門 長沼村名主石井作宇衛門 房州平塚村名主山田藤兵衛 金束村名主福原広右衛門 下総岩井村名主中山清左衛門 上総下吹入村名主川口縫左衛門 高橋嘉兵衛 名主高橋幸右衛門 高橋重左衛門 岩井権兵衛 岩井大内蔵 車屋勘兵衛 紀伊国屋源四郎 神田講中 出羽屋源太 谷三倉村中 高橋佐左衛門 高橋源兵衛 当村中 石工房州古谷 願主岩井喜兵衛 平塚山田藤兵衛」となっている。