秣場出入り(争い)のこと
次に、本三倉と谷三倉両村の秣場(草刈場)争いについて残された文書があるところから、そのことについて記してみよう。
当時は草を刈って牛馬の飼料とし、また、これによって生ずる厩肥が唯一の肥料となった。そのため、草刈場の広狭が営農に及ぼす影響はきわめて大きく、秣場出入りは各地に見られた現象である。
両村の場合は元文年間(一七三六~四〇)ばかりでなく、後の安永五年(一七七六)にも再度争いが起こり、かなり深刻な様相を呈したようである。そして、三倉三村が分離するに至った経過もうかがえることから、訴状の原文を掲げて大方の参考に供したい。ただ、判決文がないので、その結末を、資料として確認できないのが残念である。
乍恐書付を以御訴訟申上候
下総国香取郡谷三倉村
太田藤右衛門知行所名主十左衛門
訴訟人 組頭佐左衛門
百姓代加兵衛
入会秣場出入
同国同郡三倉村
内田出羽守様御知行所
相手 名主内蔵之亟
組頭 平右衛門
同 三郎右衛門
同 縫右衛門
一、下総国香取郡谷三倉村之者共申上候、当村之儀者往古ゟ御高四百七拾石五斗三升余之村方ニ而、即御水帳壱本ニ有之、谷三倉村三倉村小三倉村と申、一村之内御検地以前ゟ三ケ所ニ御座候処ニ、先年猪子久左衛門様御代官所之節、両三倉村と小三倉村出入仕、其節小三倉村斗者野地並御高共ニ相分リ境相立別村ニ罷成候、其後慶安弐年ニ相手三倉村者内田出羽守様御知行ニ弐百九拾四石相渡、私共村方ハ御料所ニ而罷有、七拾九年以前ニ当御地頭太田藤右衛門知行所ニ先年相分リ候、小三倉村共ニ一所ニ相渡リ申候、乍去三倉谷三倉両村之儀者田畑御高者相分リ候得共、元来一村之事故田畑一枚交リニ有之、別而両三倉者何連を村境と相定可申様曽而無之候間、往古ゟ一同ニ致来、村附之秣場等迄入念ニ支配仕、馬草刈来申候、然ル処ニ三倉村者大高ニ御座候而百姓数茂多ク有之候ニ付、私共村方を相掠メ前度も秣場江夥敷新林仕立候故、其砌も取払候様ニ相断候得共以今捍掠置取払不申候、尤右之趣御願申上度奉存候得共小高之百姓ニ而困窮仕候間、猶又御願も不罷成無是非其通りニ致罷有候得者、此度も無止事右秣場之内北井台と申所江巧を以当春又候小松植立新林仕候間、依之私共村方ゟ申遣候者無謂ケ様ニ秣場を自由我侭ニ段々狭メ新林拵立入会相留り候様ニ仕候訳何共難斗奉存、誠ニ以林ニ仕立候得者山谷通御田地者木陰相懸リ其上右立木繁リ候得者弥以秣場相立可申様一切無御座候間、早速抜取可申旨度々相届候処ニ得心不仕剰及挨拶ニ候者北井台ハ此方地内ニ候得者新林致候共勝手次第ニ有之抔と格別成ル返答仕、先規を相破リ抜取候儀者扨置貧着不仕候間数度之事故難指置奉存、私共方ゟ右之小松取払申候得者却而我侭相募リ当時者入会来候秣場江大勢番人昼夜附置谷三倉村を為立入不申候ニ付、田畑古屋(こや)し又者飼料ニ茂指支草場ニ相離連難儀仕候、勿論相手名主厳敷野番附置相留候間、若又私共立入候ハヽ強勢成者故何様ニ致懸ケ怪我可仕茂難相知連奉存候ニ付乍恐御願申上候、且又右秣場之儀者両三倉村入会と申儀紛無御座候段者双方名主先祖之墓所両方ニ引分リ相互ニ仕則入違ニ往古ゟ相立以今御座候、其上相手村方ゟ前々我侭を以新林仕候場所ニ茂是又私共村方役人之墓所御座候而、寺以入会之証拠於野場も無紛訳ケ有之候儀を、彼是今更申紛シ三倉村江奪取一村之新林ニ仕立支配可仕巧事と奉存候御事
一、右論所北井台之儀者隣村之出沼沢両村野続之秣場ニ御座候、然ル処ニ先規右両村と私共両三倉村と一同ニ申合異論無御座候様ニ境立仕候畑も結局私共所持仕候御田地を境ニ限リ境引致置、以今応然明白ニ相守来無紛候儀を却而三倉村斗ニ限リ秣場之北井台を支配ニ有之抔と新規ニ無跡形茂偽申懸ケ入会秣場ニ剰相留メ迷惑仕候、勿論前々植立置候松木御座候ニ付畢竟此度も私共を何様ニ致候而茂不苦と相心得候哉、又候捍掠理不尽成ル致方仕候間困窮之百姓ニ御座候得共末々共ニケ様猥ニ罷成候得者、入会秣場ニも相離レ猶又御田地相続不罷成候故乍恐奉願上候、御慈悲ニ有来候秣場之内新林往古之通不残取払、向後共ニ一切新林不仕草場ニ相立入会如先規之相妨不申候様ニ奉願上候、尤此段者近村ニ而も存候故私共及出入ニ候訳ケ承候、以来取扱人茂罷出先規之通と申候得共、相手三倉村我侭申候間是又扱も相離連内証ニ而相済不申候ニ付、乍恐御訴訟申上候御事
右之通相違不申上候、御慈悲ニ被為御聞召訳相手被為御召出御吟味之上、当時植立有之候新林等茂先規之通取払、且又私共ヲも末々迠相掠不申秣場猥ニ不罷成草場相立候様ニ奉願上候、勿論向後相手方ゟ新林一切不仕入会秣場江相障指留不申候様ニ被為仰付被下置候ハヽ難有奉存候 以上
下総国香取郡谷三倉村
訴訟人 名主 十左衛門
組頭 佐左衛門
百姓代 加兵衛
元文元年辰(一七三六)八月
御奉行所
五人組並に宗門御改人別帳
文政五年(一八二二)のものが保管されていたが、村によっては『五人組帳』『宗門人別帳』の二冊に分けられているところが多い。
『五人組帳』についていえば、たとえば、年貢の支払いができないものがあると、この五人が連帯責任者としてこれを納め、罪を犯す者があったときは、他の四人も不行届きのゆえをもって罰せられた。この習わしが今に残る「兄弟講」かとも思われる。そして各組の名前、組頭などを記載したのがこの帳である。
『宗門人別帳』は、現在の戸籍簿のようなもので、名主が各戸の当主・家族の名前年齢を調査記入し、当主に確認のうえ捺印させる。さらにこれを各戸の菩提寺で宗旨を確認し、禁止された宗教の信者でないことを証明させたものである。
これに記載された者だけが旅行に必要な関所手形や往来切手が発行される。また、この帳に記載されていることによって正業にもつけるし、他家に雇われることもできる。人別帳から抹消されると、無宿者・帳外者といわれ、村内はもちろん、どこに行っても雇って貰えず、正業にもつけない。
両帳にはいずれにも前書きといって、村民として守るべき事柄が細かに箇条書きに書かれているが、この村の場合は一冊にまとめられている。次にその内容を掲げてみる。
五人組並宗門御改人別帳
一、毎々被仰付候通り五人組仕候、自今以後五人組之者共万事父子兄弟同意無別心申合、火事盗賊用心耕作念入油断致ス者ハ互ニ心ヲ付可申候事
一、五人組之内不届成者在之、田畑無精他に歩行博奕ヲ致百姓ニ不似合男立 高未進又ハ分限過借金抔可仕体ニ候ハヽ五人組仲間与(と)して致意見、妻子奉公に出し又ハ自 ヲ売借金済也無程所へ立 リ百姓相勤候様、残リ田畑不荒様ニ取賄イ可申候、若又意見不用不届之者有之候ハヽ名主組頭申其上江戸御屋敷様江可申上候、見逃聞逃申間敷候、並如何様之出入御座候共其人ト而御屋敷様江罷出申間敷候
一、五人組之内何事ニよら須悪心構へ申者御座候ハヽ異見申、承引無之候ハヽ可申上候
一、行衛不知者村中ハ一夜留置申間敷候、無処者ニ而一夜指置候ハヽ慥成請合為致取置可申候
一、右之外何事よら須被仰付候御法度之品堅相守可申候、為其村中五人組仕指上申候 以上
文政五年午三月日
谷三倉名主重左衛門 印
組頭佐左衛門 印
奥村運平様
上野宇兵衛様
五人組頭 清左衛門 印
次郎兵衛 印
太郎右衛門 印
三郎兵衛 印
三倉村新右衛門 印
五人組頭 新右衛門 印
与右衛門 印
甚右衛門 印
久左衛門 印
七右衛門 印
五人組頭 兵右衛門
四郎兵衛 印
源之丞 印
源兵衛
甚之丞 印
五人組頭 太郎左衛門 印
清右衛門 印
伊右衛門 印
与左衛門 印
小兵衛 印
五人組頭 嘉兵衛 印
佐左衛門 印
仁左衛門 印
次浦村惣右衛門 印
同市右衛門 印
右之通リ五人組吟味仕連印致指上候、兼々被仰付候通御法度之趣堅相守可申候、為後日如件
文政五年午三月日
名主重左衛門 印
組頭佐左衛門 印
奥村運平様
上野右兵衛様
一、檀那寺、三倉村真言宗、西徳寺 印
家主次郎兵衛 三十八歳
一、同寺 母 なつ 六十歳
一、同寺 妻 志け 二十八歳
一、同寺 忰 辰之助 三歳
人数四人 男弐人 女弐人 馬壱疋(中略)
一、檀那寺三倉村真言宗西徳寺 印
家主三倉村新右衛門年三拾九歳
妻 とよ 年四拾三歳
男女合百拾人
男五拾三人 女五拾七人 馬弐拾疋
右之通リ代々真言宗ニ而拙寺旦那ニ紛無御座候、毎年宗門御改之節銘々致印形帳面指立置候通リ少茂相違無御座候、万一御法度之切支丹宗門之類族之由訴人有之候ハヽ拙寺共何方迄茂罷出急度申訳可仕候、今般宗門御改ニ付致印形指上申候依而如件
文政五年三月日
下総国香取郡牧野村観福寺末寺
同国同郡三倉村真言宗西徳寺 印
同国匝瑳郡米倉村西光院又末寺
同国同郡次浦村真言宗泉光院 印
太田下総守様御内
奥村運平様
上野右兵衛様
右之通リ宗門御改ニ付村中並越石百姓茂一同吟味之上人別不残帳面相記し旦那寺銘々為致印形指上申候為後証之依而如件 以上
下総国香取郡谷三倉村名主重左衛門 印
組頭佐左衛門 印
太田下総守様御内
奥村運平様
上野右兵衛様
下総国香取郡和田村妙法寺末寺
同国同郡谷三倉村天台宗宝積院無住
右のような『人別帳』を基本にして、明治五年(一八七二)に、はじめて全国的に新戸籍簿が作られた。そして、この事務は各村々の名主が、戸長と名を改めて取り扱っていた。当時の戸籍手続きは、戸主の申し出によって、戸長から戸長に通知されて処理していたのであるが、次にその一例を掲げてみる。
送籍状之事
新治県管轄
第五大区小三ノ区
香取郡馬乗里村
拾三番屋敷居住
農高木権之丞
二女 とみ
酉二十一歳四ケ月
右之者、其御村方農岩井権兵衛妻ニ差遣候間、当村除籍候条、以来其御村江御編籍有之度、依之送籍方如件
明治六年(一八七三)四月三十日
右村副戸長高木与治右衛門 印
戸長高木利兵衛 印
同御管下
同国同郡小三倉村
正副戸長御中
これは文面のとおり、馬乗里村の「とみ」が結婚によって小三倉村権兵衛の妻となるので、その戸籍を送るから、そちらで新しく編籍されたいというものである。