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馬牧の成立

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 多古町の西北部一帯の林野およびその周辺に点在する村々を含めた広大な原林野は、古代から野馬の放牧地として時の権力者の支配を受け、近接農民の進入を拒絶していた。
 文武天皇の時代(六九七~七〇七)に作られた大宝律令の中に、馬政についての諸令がある。その内の『廐政令(くもくりょう)』には、左右馬寮直轄の「御牧」と称する牛馬牧が三二カ所、兵部省の所管する「諸国牧」が上総下総など十数カ国にあり、ここから毎年貢物として牛馬が献上され、駅伝馬などに売却されたことが記されている。
 下総国には高津馬牧・大結馬牧・本島馬牧・長州馬牧・浮島牛牧があり、この内の高津馬牧は本町の高津原にあったとする説もあるが、その痕跡はない。現在の桧木区域に「捕込(ほっこめ)」と称する馬捕場の上堤を中心として、馬牧にちなむ字名や行事がいまなお残っていることから、いずれかの時代に馬牧が存在したことは確かであるが、それが一千年を超える以前の高津馬牧であったと断定する史料は見当らない。
 いずれにせよこれらの馬牧は朝廷から豪族へ、官牧から私牧へ、私牧から官牧へと幾多の変遷を繰り返しながらも、農業用地としての利用価値がきわめて低い土地である反面、茫々としたその原野は野馬の放牧地としては最適の地であった。
 次の『古事類苑』『新撰佐倉風土記』の記述によれば、天正十一年(一五八三)に北条氏康が千葉邦胤に命じて馬牧を開設したのに始まり、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦い以降、徳川家康は軍備強化のため、軍馬確保の手段として、小金・佐倉・嶺岡にいわゆる房総三牧を設置した。しかし牧とはいいながら、四十里野牧とさえいわれた広大な原野は、十分な管理を行き届かせることができず、慶長十九年には幕府直轄の馬牧として十一牧に分区され、のちさらに小金五牧、佐倉七牧と分割された。
 
     古事類苑
 二総馬牧、権輿ノ天正度御開府ヨリノコトナルベケレド明制ヲ領タレシ、慶長一九年以来ナリ上野、中野、下野ヲ小金ト称ヘ、内野・高野・柳沢・小間子・取香・矢作・油田ヲ佐倉ト称フ別ニ印西牧アリ都テ十一牧アリ
 
     新撰佐倉風土記
 自印旛郡之東南千葉郡及上総国武射山辺二郡曠原也伝北条氏康使千葉氏置馬牧於此徳川覇府又置牧場以区別之其一曰小間子牧(縦七五町横四十町)其二曰柳沢牧(縦九十町余横七十町余)其三曰高野牧(縦六十五町余横四十町余)其四曰内野牧(縦五十町余横三十町余)倶在印旛郡其五曰取香牧(縦五十町余横三十五町余)在下埴生郡其六曰矢作牧(縦七十町余横三十五町余)跨下埴生香取二郡以上六牧連于此原野坤良而延互上総国武射山辺二郡外有一曰油田牧(縦五十町余横十五町余)在香取郡之佐倉七牧
 
 小金五牧は上野(現在の柏市付近)、中野(松戸・鎌ケ谷市付近)、下野(習志野市付近)、高田(柏市・流山市付近)、印西(白井町付近)で、総面積一、五〇〇町歩、土堤延長三五里。佐倉七牧とは取香(成田市取香三里塚芝山町岩山付近)、内野(富里町七栄新木戸付近)、高野(富里町高野新井田付近)、柳沢(八街町大関付近)、矢作(多古町十余三大栄町十余三成田市十余三付近)、油田(小見川町油田栗源町上ノ台付近)、小間子(八街町四木付近)である。
 これらの牧が整備されたのは、江戸時代中期の八代将軍吉宗の頃(一七一六~一七四五)であった。江戸に野馬方役所を設け、小金に御厩役所(金ケ作陣屋)、酒々井に佐倉野馬会所を置くなどして機構を整え、代官・野馬奉行・牧士などを任命して現場管理に当らせ、積極的にその対策を実行した。野馬奉行や牧士には地方の有力者を取り立て、代々世襲の役職として苗字帯刀を許し、名主の上位に据えて農民への課役を仰せ付けた。
 そして牧周辺村々の農民は、馬牧の課役を負わせられながら馬牧と共存することになったのである。
 記録に残る野馬奉行・牧士の氏名は次のとおりである。
 
  野馬奉行   綿貫夏右衛門
         酒々井村
  牧士組頭   嶋田長右衛門 取香牧見廻
         新橋村
  牧士     佐瀬長左衛門 同断
         久能村
  牧士     藤崎半右衛門 矢作牧見廻
         大袋村
  牧士     丸 弥兵衛  同断
         岩富町
  牧士     鈴木源右衛門 小間子牧見廻
         滝沢村
  牧士     今井清左衛門 同断
         本矢作村
  牧士     根本玄蕃   油田牧見廻