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矢作牧と農民

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 矢作牧は、現在の多古町十余三・御料地・登戸台・五辻付近から、大栄町・成田市・佐原市の一部に及び、牧々の内でも広大な面積を有していた。牧の中にはササメやシノが密生し、実生松・杉・椚などが群生する中で野馬は自由に繁殖したのである。
 元禄十三年(一七〇〇)の調査によると、佐倉七牧全体の総馬数は一、一一九頭で、これが天保弘化の頃(一八三〇~四四)になると三、五六八頭と増加している。
 『酒々井町史資料集第二巻』によると、次のことがわかる。
 
  寛政十二申年十月十四日
   小間子牧 馬数合七百六疋
   取香牧   四百五十五疋
   矢作牧   四百九十四疋
   油田牧    百六十六疋
       内
   上御馬 三疋
   駒   拾疋 佐倉城主江被下
   御払駒都合 九拾九疋
   駒 四疋駿州愛鷹山江牧替
   駄 右同断
  矢作牧総馬数四百三十八疋
     此訳
   父馬 拾七疋
   母駄 弐百九拾七疋内三拾八疋弐才駄母ニ立
   弐才駒 四拾弐疋
   当才駒駄 八拾弐疋
 
 牧々周辺の荒野には、狼・山犬・猪・鹿などが跋扈して当才駒や病馬に襲いかかり、その被害は甚大なものであった。こうした被害を防ぐために、犬の落し穴を掘ったり、見通しのきくように下枝を伐採したり、その他、野馬を保護するために、村々から人足を差し出させた。
 また、区域を定めて見回りを仰せ付け、異状のないように警戒させるほか、何か変事を発見したときは、逐一届け出るよう、その責を村役人に負わせ、その代りに「秣草刈場」と称して、見回り場所での下草の刈取りや山栗、下枝の採取を許したので、村々では肥料や燃料、蓑笠の材料から家囲いの材料などを、牧内の林野から自由に求めることができるようになった。
 牧々の周辺の村々を「野付(のづけ)村」「霞郷」または「新木戸内村」などと称したが、矢作牧の野付けは二八カ村、そのうち多古町では飯笹・一鍬田・出沼が野付村となっている。また本三倉・谷三倉・次浦・南玉造・川島・坂・方田・出沼の八カ村は油田牧の霞郷となっていた。
 この野付け、霞の村々には村継ぎによってお触れが出され、牧場管理のいろいろな仕事が課せられた。
 その「触れ状」は、『酒々井町史資料集』によると次のようなものである。
 
 寛政五丑年四月六日
一、前々より申渡候通御牧場野馬其村々江致内入候得者不時之怪我等無心元 勿論作物喰荒候得者其村々不為之筋有之候、若内入候野馬有之候ハハ怪我無之様そろそろ野馬立場江追出、村囲等入念致置、古井戸等有之候ハハ埋之、落穴等心付可被置候
 且又先達而申触候通、無程御見分有之候付等閑之致方有之候得ハ、其村名主組頭百姓代越度相成候間左様相心得、大小之百姓共右之趣申聞可被置候、此廻状被見上村下名主致印形早々順達泊村持参可被相返候 以上
    寛政五丑年四月六日
                        佐倉野馬役所
                                      四牧野付村
                                        右村々 名主 組頭
 
 牧場内での仕事は次に記すように数多くあったが、なかでも「野馬捕り」は大変な行事であり、野馬役人の接待の費用まで各村々で負担しなければならなかった。享保年間の記録には「御捕馬賄会所 高壱石ニ付四六文 外に勢子人足高百石ニ付九人」となっている。
 その他野馬の水呑井掃除、請地日々見回り(野馬の安否、出産の有無、死馬の場所)、犬追出し、牧士乗馬飼番人足、御林人足(野馬の避暑、避寒、樹林の手入れ、冬のダニ焼、旱魃の水運び)、山犬落穴人足、築堤人足、立木切人足、水夫人足など、村々の農民にとっては日常の農耕にも支障を来たすほどの課役であった。そして、各村々ではたびたび「御人足御免」の願い書を出したが、聴き入れられた記録はほとんどない。
 また、御(お)上の御用地、御上の御馬として、作物を食い荒らされても損害賠償の請求もできず、棒をもって追い払うことも越度(おちど)となり、ひとたび野馬が牧外へ逃げ出すと村中は大騒ぎとなった。村境や牧と農作地を区切って、野馬が外に出ないように野馬除けの土堤を築き、牧と村の出入口には木戸を設けて張り番をした。
 現在各所に残る大小の土堤は、野馬除けの土堤として元文年間(一七三六~四一)以前に築かれたもので、この土堤についての文書史料に、次のようなものがある。
 
 左三ケ牧勢子土手並夜番土手、四拾年以前元文元辰年土手御修復有之、三十一ケ年以前延享二丑年両度御修復有之、其後御修復無之候ニ付、右土手及大破当申捕馬御用差支申候間、何卒御修復書面之通仕度奉存候、外新土手等茂仕度奉存候、依之右之段申上候 以上
   安永五申年八月
                                            嶋田長右衛門
                                            藤崎半右衛門
                                            丸 弥兵衛
                                            佐瀬長左衛門
                                            今井清兵衛
                                            鈴木源右衛門
                                            根本玄番
  小金御厩御役所
 
  一鍬田前 上置 六尺 高壱丈二尺
  土手長 弐百七拾八間 馬踏壱間
             両腹付厚三尺
             敷 三間
前林向 上置 五尺五寸  高壱丈二尺
             馬踏五尺五寸
             両腹付厚二尺七寸
             敷 三間
 
  寛政七卯年六月
  字前林道祖神より沢村請所土手迄
   新土手長 六百間 但高弐間
           馬踏一間 壱ケ所
           敷弐間半
此土地 弐千百坪
 
 矢作牧夜番土手築埋人足員数
      飯笹村 弐拾七人
      一坪田村 拾壱人
      前林村 三拾人
                                         (『御用留日記』より)
 
 これらの史料が示すように、土手は村方との境界のほか、野馬の逃走を拒んだり、馬捕りのときに馬追いの勢子(せこ)が捕えやすいようにする「勢子土手」、馬を追いこんで捕える「捕込(ほっこめ)土手」などがあって、年々修理をした。「土地一坪当り一日半懸り、一日一人米五合」と記録されている。
 また狼や山犬狩りについて、史料は次のように記している。
 
 御牧場山犬防止方之儀付左奉申上候
一、前々より当才出生之砌、年々頭綿貫夏右衛門佐倉四牧江出役被致、同人所持之鉄砲ニ而狼山犬打殺申候、夏右衛門病気差合有之佐倉江出役無之節猟師ニ打セ申候、其外落穴ヲ掘斃馬有之候得者右落穴ヘ犬ノ飼ニ差置捕申候、勿論当才出生砌、牧士之儀申合日日野廻仕、殊寄昼夜共野罷在犬防 仕候儀御座候、右狩人打申候玉薬代之儀前々より御入用相懸り不申候
     此訳
 御牧場内野馬ニそれ矢等無心元奉存候ニ付、猪鹿たり共狩人猥リニ野内不打御座候得共、是を見済野中猪鹿打セ右之皮ヲ為取成助為仕候儀御座候、時節ニ寄猪鹿壱疋打申候得者、金三分壱匁程宛ニ相払申候由ニ御座候、前書之通狼山犬防之儀右之通取り斗仕来申候 以上
   寛政五丑年四月                                嶋田長右衛門
 
 矢作牧犬落穴囲竹木
  字一鍬田前 杭木拾六本代 百弐拾四文
        竹八十五本 代百参拾弐文
     巳四月                             一鍬田村名主 勘之亟 印
 
 寛政十年午当春四牧犬打殺候犬数
  小間子牧  拾疋
  取香 牧  七疋  [平打四疋 落穴三疋]
  矢作 牧  拾三疋
  油田 牧  弐疋
 
 これらの文書からも、相当数の狼・野犬が横行し、難儀していたことがわかる。
 また見回り場所については、秣刈場の利権がからむことからたびたび村々には争いがあったようである。
 
     差上申御請一礼之事
一、前野大聖原之儀、先年享保七寅年前林村より沢出沼野論有之候節相極申候御裁許、地元前林沢出沼秣入合、相定リ其節より野役等相勤申候処、去ル丑年より岩本石見守様被遊御下リ御改之上、高津原木戸より一ノ木戸迄佐原海道東附沢・出沼見廻り被仰付承知奉畏候、右見廻場所にて死馬病馬或ハ野火事等出来候節者御支配所江御訴可申上候、仍而御請一礼如件
    寛政八年辰三月                           沢村
                                        百姓惣代 三郎右衛門
                                        組頭惣代 恒右衛門
                                        名主 半蔵
                                      出沼村
                                        百姓惣代 半左衛門
                                        組頭惣代 喜兵衛
                                        名主 五兵衛
 
   乍恐以書付奉願上候
一、矢作牧之内、飯笹村見廻地所字中ノ沢申所ニ有之候雑木、私炭木ニ買請申度候間此段御願申上候、何卒御憐愍ヲ以御払被遊可被下候様奉願上候、並一鍬田村見廻地所字新堀土手之外ニモ多少有之候間、此儀茂一同御払被遊可被下候、乍恐木代之儀金子壱両壱分ニ而被仰付可被下候様偏ニ奉願上候、願之通被仰付被下置候ハハ難有仕合奉存候 以上
   享和三亥年壬正月
                                     下総国香取郡一鍬田村
                                          願人 磐右衛門
 前書之通御願之筋相違無御座候付奥印仕候
  壬正月                                   同村名主 勘左衛門
 小金御厩
   御役所
一、矢作牧新堀前雑木買請願書壬正月差上候処訳リ兼候ニ付又々亥三月認直シ差出候
  乍恐以書付雑木員数奉申上候
一、雑木弐百七拾本、頭木三拾本弐尺廻枝下七尺、中木七拾本壱尺五寸廻、枝下六尺、下木百七拾本壱尺廻枝下五尺位、是者飯笹村見廻之地所中ノ沢ト申ス所ニ有之候分代金壱両弐分同三拾本内頭木五本壱尺八寸廻、枝下六尺五寸中木拾本壱尺二寸廻枝下六尺位下木拾五本八寸廻枝下四尺八寸位、是者一鍬田見廻地所字新堀土手内外有之候分、此代金弐朱
 右二ケ所ニ而三百本、代金〆壱両壱分
 右雑木有之候場所至而大藪ニ御座候何卒炭木ニ仕度候間御払被仰付被下候様奉願上候願之通被仰付下置候難有仕合奉存 以上
   享和三亥年二月                              一鍬田村
                                             磐右衛門
小金御厩御役所
 
 矢作牧字新木戸前 椚苗 [丈三尺~四尺 鐚五文]
  植付場所 但酒々井町より植付場所迄道法六里駄賃之儀者壱里壱駄銭七拾弐文ヅツ
  三十本植付 寛政十一年扣
 
 きびしいお触れや御法度の中で、村々では次第に秣刈場を広げ、見回りや林野の手入れを行う一方、請地内を開墾して農作物を作り、次第に牧場へと進出していった。
 享保七年(一七二二)代官小宮山杢之進は野馬見回りに当り、各所に開発された新畑を見出した。そして百姓達のとった所業を詮議し、同十六年(一七三一)に各村々の検地を行った。林畑あるいは村名や字名を付した新田、また御新田と呼ばれるのがそれである。
 このような内容を含みながらお上の御用地として村々の自由な出入りを拒んでいた広大な下総の原野にも、農民の開拓の鍬は次第に伸び、馬牧の衰微と相まって農民の進出はいっそう拡大していったのである。