田 一町五反三畝歩 宅地 二八町四反六畝歩
畑 三二三町歩 原野 八町一反四畝歩
山林 一一四町六反八畝歩 その他 二町七反二畝歩
戸数一九六戸
人口 男四四三人 女四〇六人 計八四九人
と、このようになっている。
県道・町道が縱横にはしり、各業種の商店もまた広い地域にわたって人を集めて活況を呈し、多品目に及ぶ農産物は東都市場の注目するところとなって、純農村地域としての健全な環境はますます整いつつある。
開墾会社の設立
明治の開拓以前、十余三御料地周辺は矢作牧といい、幕府直轄の馬牧または御鷹場と称する原林野であったことは前述のとおりである。
徳川政権が倒れて時代は明治へと移り、いわゆる明治維新といわれる大改革が断行された。武家制度の廃止に伴い、騒然とした世の中に職と家を失った徒輩が街々に彷徨し、暴動への危険をはらむ一触即発の世情であった。
こうした情勢に苦慮した政府は、旧幕府領下総十二牧の開拓を計画して、無籍浪々の徒を独立農家に養成し人心の鎮静を計ろうとした。
明治元年、政府高官大久保利通はその書翰によって、「当時東京ニ於テハ政府ノ威権未ダ確立セズ諸旛不平ノ徒各所ニ出没シテ政府ヲ攻撃シヤヤモスルト暴挙ニ出ントスルノ形勢ニアリ……内治外交共二憂フベキ形成……」と嘆き、東京府からはまた「一ツニハ人情ヲ安定シ、一ツニハ規律ヲ修束スルノ良策ハ開墾ヲ本意トシテ傍ニ戸籍ヲ改正スルノ処分ニ如ク有之間敷……」(『三井文庫資料』)と上申している。そして明治二年四月開墾規則草案が発表されて開墾局が設置され、政府より二〇万両の貸付金(一〇年間無利子)が交付され、府下の商人たちによって開墾会社が設立された。「開墾会社取締役総頭取申シ付ケ苗字帯刀差シ免シ候事……」これは東京府下の豪商三井八郎右衛門に渡された辞令である。
府下の豪商一二〇名の連署をもって会社は成立したが、実際の事業は三井以下、頭取西村郡司・中沢彦吉など九名、重掛肝煎一四名、肝煎などの役員三七名によって進められた。そして同年、無籍無産者その他の希望者を募って、まず農業に耐えるかどうかの体力検定が行われることになった。
東京府下ニ輻湊スル無籍無産ノ窮民ニ産業ヲ授ケ、独立自活ノ農夫タラシメントスルノ御趣旨ヲ以テ、明治二年三月十日行政官東京府ニ令シテ……東京府下ニ授産所四ケ所ヲ設ケテ農事ニ耐ウルルヤ否ヤヲ検セリ。入場スルモノ七、九六四人、内六、四六一人ヲ該地ニ移シ各業ニ就シム。開墾場ニ移住スル窮民ハ、一戸ニ家作地五セ歩ヲ附与シ居宅農具等ハ之ヲ貸与シ、且六十歳以下十三歳以上耕耘ニ従事スルモノハ一人五反歩ノ手作地ヲ割与シ、其ノ貢租ハ六ケ年ヲ免除シ、自力ナキモノハ開拓中一人ニツキ白米五合ヲ貸渡シ耕耘ノ余暇一日又ハ二日ヲ隔テ他ノ職業ヲ営ミ、其賃銀ヲ以テ味噌、塩、炭等ノ費用ニ供セシム。而ウシテ開拓中貸与セシ白米ハ、開墾ニ着手ヨリ六年度ヲ経テ後四ケ年ニ返納シテ五反歩ノ地主タラシム
(『印旛県史』より)
こうして、この体格検定に合格した者六、四六一人は所定の職業訓練を受け、各授産所から開墾局の御用船に乗り、隅田川を下って行徳河岸へと上陸、下総の牧々へと移住していった。
明治二年十月二日、移住の第一陣は中野牧(松戸鎌ケ谷付近)へ入植、下総牧々開拓の鍬下しが行われた。一番初めという意味で「初富」と命名され、以後開墾順位に従って次のような字名が付されることになった。
一 前条小金佐倉拾弐牧之内拾牧受取開墾取掛候場所、人民引移シ順序ニ随ヒ牧名ヲ用ヒ往々村名ニ致候見込ヲ以左之通字ヲ取極相唱来候旨
一 初富(ハツトミ) 中野牧 (現船橋市)
但南初富、北初富ト、弐ケ所ニ相成居候
一 [二和(フタワ) 三咲(ミサキ)] 下野牧 (現船橋市)
但二ケ処ニ相成居候
一 豊四季(トヨシキ) 上野牧 (現柏市)
但南豊四季、中豊四季、北豊四季ト三ケ処ニ相成居候
一 [五香(ゴコウ) 六実(ムツミ)] 中野牧 (現松戸市)
但二ケ処ニ相成居候
一 七栄(ナナエ) 内野牧 (現富里町)
但壱ケ処
一 八街(ヤチマタ) 柳沢牧 (現八街町)
但壱番ヨリ六番マデ六ケ所ニ相成居候
一 久美上(クミアゲ) 油田牧 (現佐原市)
但弐ケ所ニ相成居候
一 十倉(トクラ) 高野牧 (現成田市)
但弐ケ所ニ相成居候
一 十余一(トヨヒト) 印西牧 (現白井町)
但一ケ処
一 十余二(トヨフタ) 高田台牧 (現柏市)
但一ケ処
一 十余三(トヨミツ) 矢作牧 (現多古町・大栄町・成田市)
但三ケ処ニ相成居候
右之通ニ有之候 (『柏市史』より)
開墾事業は決してなまやさしいことではなかった。あたり一面、身のたけを上回る荊の荒野に、入植者はただ恐れをなしてなすすべもなかった。雨露を凌ぐだけの農舎に住まい、手足はいばらに切り裂かれ、いかに覚悟はして来たとはいえあまりの苦痛に脱走するものもあった。
「炭ナク油ナク夜ハ渡サレシ薪ヲタキテ灯火ニ代エ、炉ニ添ウテ早ク寝ルヨリホカナク、昨日迄ノ都住居ノ身ハアタカモ百里モ山奥へ入リシ心地シテ……」とその心境を訴えている。
連日の苛酷な労働にもかかわらず開拓は遅々として進まず、それに加えて、烈風土砂をまくといわれた気象条件の中で、相次ぐ台風の襲来や頻発する火災など、予期せぬ災害が続発した。
しかしこうした中の明治三年秋、辛うじて幾ばくかの麦が収穫され、続いて夏作は「……岡穂ヲ始メ夏作第一、粟稗等至極生イ立宜シク一同気力ヲ得候処……」であったが、期せずして真夏の炎天は作物の生気を奪い、やがて明治四年七月九日、古今未曽有と嘆かれた大暴風雨に襲われ、一転して奈落へと突き落とされた入植者は発すべき言葉すらなかった。
『松戸市史』にはそのときの様子を「小金佐倉両牧の農舎の過半数は潰れたり、潰れ同様に吹き曲り……そして社中一同恐怖十計尽果打寄候ても一同言句も無之、唯々許多の窮民も倶に不運の者と歓息仕候外無之……」このように記している。そしてこの大暴風雨によって、後に十余三村へ移住することになった五香六実の被害状況を「小金三牧潰家取調書」からひろってみると「五香六実拾棟之内七棟皆潰レ三棟無事六実農舎織場トモ皆潰レ但少シ茂残無之候事」という壊滅的な打撃を受け、移住民の貧苦はその極限に達した。
会社の解散
こうした度重なる災害に、会社もまた多額の出費を余儀なくされ、政府への援助の要請を行う一方その対策に奔走したが、もはや前途にその成果を期待することはないと判断した政府に対して、数カ月にわたる強硬な交渉を続けたが、ついに窮民救済の方途も示されないまま、明治五年五月に事業を印旛県と新治県に引き継ぎ、後いくばくを経ずして会社は解散することになったのである。
次に示した文書は、解散に当って、政府と会社との間に取り交した示談書である。
一 明治三年民部官より貸与した二十万両の返済は之を免除する
一 会社がこれまで投入した四十万両の代償として小間子牧を野馬と共に無償で払下げる
一 東京移住民に対しては手作地五反歩家作地五セ歩を割リ与え農舎その他貸米金農具などは一切無償で給与し独立農夫とする。
開墾会社が解散したその後、入植者は五反五畝歩の独立農家とはなったものの一切の援助を打ち切られたことから途方にくれ、五反五畝の割渡地を手離して離村する者が続出した。
こうしたことから千葉県は明治七年七月、「開墾村移住民窮民ノ所有地ニ銘々独立活計見据相立迄沽却ノ儀ハ勿論質入レモ一切不相成……」と発令した。すなわち売ることも質入れすることも許さなかったわけである。しかし入植者の中には法的に近郷農家の次三男を養子に迎えて土地を譲り渡し、暫くして離村するという方法を選んだ者もいた。
またこの頃、徴兵令の施行に当って戸主は兵役を免除されるという特典のあることを利用して、近在農家の次三男は好んで養子縁組に応じたともいわれ、こうしたことによって入植者の離村は日増にふえていった。
一方、独立農家となって残った人々や養子縁組によって跡地を引き継いだ人々と会社との間には、土地の配分をめぐって次々と紛争が各所に起こり、ついには社会的大事件として発展した。
解散に当って開墾会社は窮民割渡地を除いて、そのほとんどの土地を社員三七名の出金高に応じて分割占有した。総面積七千町歩といわれ、これらの中には離村した者の残していった土地や、近村移住民、通い作農民などの開拓した土地も含まれていたのであるが、それらについての権利は全く認められないまま一方的に小作人とさせられるなど、入植者の不満は沸騰するに至った。
明治四年九月、政府は作付の制限を解いて田畑勝手作を保証し、石代金納の自由を認め、同五年二月には田畑永代売買禁止令も解いて、土地の売買譲渡、質入れの自由を保証することにした。
これに先立って、同四年十二月土地の私有を保証する地券を発行することになり、同年十月十四日に、印旛県では次のような告諭書が発表されている。
人民一般その土地を所持する上は、即ち金銭器物を所持するものと同一の理にして、他人は勿論政府と雖もみだりに之を取上げ、また束縛すべきいわれもとよりあることなし、然るを、従前の風習ややもすれば土地は領主地頭などの所物とまぎれ、往々曖昧の取扱いすくなからず、因襲の久しき人民もまたこれを怪しむことなき。真に不都合の習俗といふべし、今や公明至当の御趣意を以てさらに人民土地を所有するの条理をたてさせられ、その証として地券御渡し相成り候事につき一時手数も費へ候へども、もとより旧政府中検地などのことは雲泥の相異なる深き至仁の御趣意を感戴し、銘々入念所持の実地において後日違乱を生ぜざるよう取調べ、所持の確証地券を乞ふべき也
(『松戸市史』より)
このように諸政令が発令されたにもかかわらず、会社側の横暴ともいうべき一方的な措置に農民が黙ってこれを認めるはずもなく、そのため入植地における紛争は各所に絶えなかった。しかし十余三村については、その開拓が遅れていたゆえもあってか、こうした喧騒の内にもかかわらず、紛争の資料は何ひとつ残されていない。
十余三への移住
明治四年、前記台風によって大打撃を受けた五香六実(香実)の開墾者たちは、十余三村へ移住することになった。そして、十余三村壱番(赤池付近)は中沢彦吉(開墾会社頭取酒問屋・両替 利屋南新堀壱丁目四番組)十余三弐番(大栄町付近)は半田屋久蔵(後小野善助持・肝煎古手呉服・木綿 橘町壱丁目七番組)十余三参番(成田市付近)は小野善助(窮民授産開墾掛兼総頭取、通商会社・為替)と、以上の三人が中心となって開拓されることになったのである。
明治四年の『開墾局仮役所日記』の一部に次のように記されている
二月三日 今朝香実会所ニ於テ先頃五番開墾人呼出し関口氏説得被致佐倉牧へ移替之儀被申渡候事
二月四日 去午類焼致候六実開墾人佐倉牧江移替之儀ニ付関口氏説得被致候
二月二十一日 増田喜十郎氏代貞三出局兼而差送可申五香六実人員之儀矢作牧ノ方ハ少シ差支得ニ有之七栄八街高野牧分ハ明後廿三日弥差送リ候積リ
二月二十七日 香実開墾人移替之分今朝西山定吉水野秀之亟差添矢作牧へ出立致候事
三月四日 去ル廿七日矢作牧江差シ送候香実人員之儀無滞引渡昨三日罷帰且雨天ニ付彼地へ両日滞留致シ延引ニ及候段届出候
(『柏市史』より)
この日記に記されているように、同四年二月二十七日、香実の開墾者は台風禍のためわずかに残った鍋釜を背負い、再び未知の土地へと重い足取りを運んでいったのである。
このとき十余三へ入植することになった第一回の人名は次のとおりである。
矢作牧十余三壱番 従香実移住
未二月移住
小石川戸嵜町
新太郎店惣吉
申四十才
妻 やす
娘 かよ
〃 はな
〆四人
未二月移住
三田切途町
五人組持店茂吉
妻 ほよ
娘 いそ
忰 定右衛門
娘 し希
〆五人
未二月移住
谷中初音町
長吉店安五郎
妻 きん
忰 安次郎
娘 とめ
〆四人
未二月移住
本所吉田町
庄助店亀吉死
弟 善吉
独立
母 むめ
〆弐人
未二月移住
麻生谷町
清右衛門店伝蔵
妻 とめ
忰 徳蔵
〃 兼吉
〃 鉄蔵
〆五人
未二月移住
南小田原町
治郎右衛門店伊助
妻 たき
娘 久ら
忰 伊之助
〃 安太郎
〃 平吉
〆六人
未二月移住
同所同町
庄助店藤兵衛
妻 やす
娘 可め
忰 重吉
〆四人
未二月移住
本所松倉町
兵々衛店弥助
妻 たよ
娘 さく
忰 伝吉
〃 定吉
〆五人
未二月移住
芝新細町
米蔵店九兵衛
妻 きく
娘 ゑい
忰 弁之助
〃 長之助
未二月移住
麻生新細町
伝兵衛店清次郎
新次郎
〆弐人
未二月移住
小石川戸嵜町
安五郎忰
独立兼吉
未二月移住
庄助店利兵衛死
娘 たけ
妹(忰) 米吉
〆二人
未二月移住
音羽町八丁目
長吉店亀次郎
妻 たき
忰 角太郎
〃 万次郎
〃 菊之助
〆五人
未二月移住
小石川林町
百五郎店良之助
忰 錠太郎
〃 宗次郎
〃 鉱次郎
〃 文治
〆五人
未二月移住
麻生町
嘉兵衛店岩吉
妻 ミつ
忰 金作
〆三人
未二月移住
赤坂新町
喜左衛門店春吉
妻 てつ
娘 こう
〆三人
未二月移住
小石川林町
留五郎店文吉
妻 とら
忰 由之助
〆三人
未二月移住
同所同町
同人店吉兵衛
妻 いく
母 きん
娘 たつ
〆四人
未二月移住
小石川林町
三吉店勝五郎
妻 可弥
娘 津弥
忰 金太郎
〃 亀吉
〆五人
未二月移住
谷中初音町
米右衛門店新兵衛
妻 てつ
娘 しけ
〆三人
未二月移住
赤坂表伝馬町
栄吉店
独立 与兵衛
未二月移住
芝新細町
庄助店
独立 五郎兵衛 (『三井文庫資料』より)
移住人員控帳
以上二二戸、七七人はようやく十余三村にたどりつき、中沢農舎に収容されることになった。
農舎は間口一二間、奥行二間半。一棟六軒割りの掘立式の丸太作りで、現在の赤池十文字付近北部地域にあったと伝えられている。
十余三は周辺村々の草刈場となっていたこともあって、さほど荒れ果ててはいなかった。また馬牧や御鷹場となっていた頃に村々の請地として管理されていた区域は、いち早く村々の人達が進出して占有するなど開発は順調に進んでいた。そのため旧来からの村々では、新開拓民の移住を黙って見ている訳にはいかなかった。「東京の金持や無頼者(ならずもの)に秣刈場を占領されてしまう」と騒ぎ出し、村々の請地や見回り場所などの所有を申し出たのである。
こうした動きを察知した政府は、
下総国の貧民は勿論其道無産の者を相移し、夫々土着致させ子孫永続の基を可被為授との御趣意に付、村々百姓共末々に至る迄此旨厚相心得可申候。…… 東京の窮民のみに申付候訳には無之、下総国其の外の者と雖も開発に加り度き者共へは取調之上右会社へ組入れ、身分相応の地所割渡可遣候、望之者は其筋支配々々へ可申出事。……
……下総国牧々を始め印旛沼等、東京の金持に奪い取られ候様申触れ候向も有之哉に騒聞え以の外の事に候……
このように公示している。
次に明治六年から十五年、そして二十二年と、その開墾の状況や土地の移動入植者の増減などを、『土地取調帳』その他の資料からたずねてみたい。
明治六年の土地取調帳によると、主として赤池を入植者に割渡し、その直後の近隣村々からの入植者には高堀、道祖神が渡されている。餅田久保、枡形、馬渡、城山などといった区域は出沼、沢・前林・伊能などの村村へ割り渡された。
明治十七年の戸数は四〇、同二十二年の町村制施行直前の地券番号による数は五一戸となっているが、空籍死亡となっているもの、また誤記と思われるものなどがあり、実際の戸数は四〇にも満たないと思われる。
開墾会社の解散に当って中沢彦吉が取得することになった十余三村壱番の総面積は、一口に一千町歩といわれているが、これは現在の大栄町の一部と御料地などを含めての面積である。数々の資料の中からその一枚を取り上げてみると、次のようになっている。
埴生郡十余三村壱番
総計三百三拾五万三千七百廿八坪九合四勺
内
拾万三千八百廿弐坪弐合 道敷引
残三百弐拾四万九千九百弐坪七合四勺
此反別千八拾三町三反弐歩
内訳
一、拾三町三反壱畝歩 [農舎地等廿二戸△畑共続村五戸ヲ加フ]
一、弐町八反三畝歩 埋葬地
一、壱町四反六畝歩 斃馬捨場
一、弐畝歩 掲示場
一、壱千六拾五町六反八畝弐歩 中沢彦吉持地
小以壱千八拾三町三反弐畝歩
地券出上高
六百八拾三町五反九畝歩
右反別取調候処相違無之也
明治七年十月十六日
十余三村壱番
中沢彦吉代理人
山岸豊作
(『三井文庫資料』より)
入植者のうつりかわり
明治七年から金杉又右衛門をはじめとする鏑木村からの入植があり、近村の次三男もまたあいついで入植、あるいは養子縁組を結んだりしたことから、新旧の交替がめだち始めて来た。
「水の便全く悪く相変らず風が吹き、冬には霜柱が七寸余も立つ……」と嘆息した都会育ちの人々は、独立農夫とはなったものの、やはりその貧苦と重労働には耐えられなかったようである。
明治十三年、再び大暴風雨に襲われた入植者は決定的な打撃を受け、もはや再び開墾へ取り組もうとする気力を失ってしまった。
台風で潰家となり、救助米を受けたときの模様を示したものが、次の文書である。
大風潰家御救助米御渡
十一月十日 十余三村壱番
一、[男壱人米 升五合 女壱人代金 銭五厘] 請取 樋田新兵衛
一、[男二人七十才以上壱合 女一人米壱斗五合]代金壱円十二銭四厘 請取 [父与兵衛代印 天津恒三郎]
一、[男二人米壱斗五升 女二人以下壱人 代金壱円四十七銭] 請取 金杉又右衛門
一、[男壱人米壱斗三升五合 女三人以上壱人壱円三十銭] 請取 安田安太郎
一、[男三人以下壱人米壱斗八升 女二人代金壱円七拾六銭四厘] 請取 大橋 弥助
一、[男二人米壱斗二升 女壱人代金壱円十七銭六厘] 請取 松岡 兵吉
一、男壱人[米四升五合 代金四十四銭壱厘] 請取 [池田新治郎 吉沢良之助請]
一、[男壱人米壱斗九升 女五人以下壱人] 請取 岡田 忠八
一、男壱人[米四升五合 代金四十四銭壱厘] 請取 [鈴木吉太郎 横瀬金助代印]
一、男二人七十才以上壱人 女二人[米壱斗二升五合 代金壱円三十二銭三厘] 受取 横瀬 金助
一、男以下壱人[米七升五合 代金七十三銭厘] 受取 吉沢良之助
一、[男三人以下壱人米壱斗八升 女二人代金壱円七十六銭三厘] 受取 嶌崎勝五郎
一、[男四人以下二人米壱斗二升五合 女壱人壱円三十二銭三厘] 請取 広川徳治郎
一、[男二人米九升也 代金八十八銭二厘] 受取 岡村 伝蔵
右連名 明治十三年十月大風雨ノ際潰家相成御救助米御渡仮受取書
そして同年から同二十五年の間に、嶋崎勝五郎、神山藤兵衛、広川徳蔵の三人を残して、他のほとんどの入植者は土地を売り渡し、十余三村の資料からも姿を消している。
明治二十二年の地券番号と、同二十三年に作成された十余三村の公図を組み合せて入居状況を一覧してみると、多古佐原県道東側と成田小見川県道北側に五反五畝の割渡地をつくり、道路に面して入居していたことがわかる。十文字を中心として全く四つ割にしたように、南西部はすべて中沢持地である。
明治三十九年に、中沢は十余三村の所有地一切(公称面積百三〇町八反二八歩)の権利を高津原の人、菅澤重雄に譲渡した。
菅澤はここに夢を描き、新しく広範囲に呼びかけて入植者を呼び集め、「農業ヲ起スハ人ヲ作ルニアリ」として自らもまた農業人として鍬を握り、率先垂範を行動で示した。
明治四十一年に有限会社菅澤農園を設立、農園事務所を赤池に設けて耕地の区割整理を行い、防災と労力の節減を図った。一方、土地の気候風土に適応する営農形態に取り組み、専門の技師を東京から招聘するなど、入植者の物心両面の安定に奔走した。そして安易な考えでの土地売買によって、土地の所有権が繁雑化する傾向にあったのを憂い、全くの小作方式を採った。
十余三開拓当時の事務所建物
このようにして、一つには気象条件に適応した営農環境を作り、一つには「三循環農法」と称して植林牧畜農業という経営を奨励した。すなわち山の草を飼料に家畜の糞尿を肥料に農収を増やそうとするものである。また人心の交流を深めることに意を用い、土着への心構えを熱心に説いた。
こうした努力によって急速に多目的な作付の可能な土地へと発展し、戸数もまた逐年増加の一途をたどり、ようやく灯のともり始めるのを見ることができるようになったのである。